2010年11月10日 (水)

【第158回】遊学生いろいろK. S. (国語)

9月8日教室にて、
「はい始めます。」  
「先生!誕生日だって?HAPPY BIRTHDAY歌うね!せ~の … 」
すてきな歌声、すてきな笑顔。素直にうれしい!ほんとうに嬉しかった。
「先生、いくつ?」      (屈託なく質問してくる)
「36、違った、37」     (大嘘つきの先生)

廊下にて、
向こうから女子生徒が小走りに走ってくる。思わず、身構える。
私のま~るいおなかにタッチ!!ニコニコ笑顔で立ち去る。またやられた~

野球場にて、
遊学大好き、野球大好き青年T君。今日も野球場に足を運んでいた。
「先生、こんにちは! 今日も勝ってよかった、楽しかったね。夏の甲子園
 予選来てましたか?会えませんでしたね。」
卒業して何年になるかな?5年?6年?    
そういえば、去年の夏もその前の夏も、野球場でみた彼の顔も腕も皮がむけていた。
「日焼け対策しなかったよ。」  なんともさわやかな笑顔。いい顔してる。

終業ベル直前の教室にて、
「国語の時間が楽しみになってきた。今日、放課後いいですか?
 この内容と次の内容のつながりがよくわかりません。」 「いいよ。」
放課後、教科書とノートをもってやって来る。もう一度、ゆっくりと説明する。
うん、うん頷き帰っていく。周りには同じように質問に来る生徒が…  先生は大忙し。
熱が入って次第に大きな声に…
いいね~、こんな光景。

三年生と
看護師をめざしている彼女。
「もう一つやりたいことができた。どっちがいいかな?まよってるの。」
夢が、その夢の可能性が広まったんだね。それだけコツコツ努力を重ねたんだ~。
もうちょっとだよ。がんばれ~!きっとつかめるよ、その夢。

友人に「最近、遊学の子たち変わったね。どうして?」といわれた。
確かに … 12年前、遊学にお世話になったとき、子供たちが大人びて見えた。
私自身の子供3人が、まだ幼かったせいかも知れない。
いや、それだけではない。ほんとうに、表情があどけない。
背伸びのない、身の丈の今を満喫している。
こう思うのも私がまた一つ年老いたからでしょうか。

2010年10月20日 (水)

【第155回】Where Dreams Come TrueK. K. (英語)

坂本竜馬がブームです。『龍馬伝』の主役の福山さんはますます好感度アップ! この役をキムタクが受けていたなら….と思うと、残念です。

そもそも竜馬ブームが起きたのは、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が発表されてからでしょう。
私も、高校生の時に初めてこの本を読みました。
坂本竜馬という人物に惹かれて、日本の歴史に興味を持つようになりました。
大学の同級生の中にも、この本がきっかけで社会科教師を目指すようになったという人がいました。

え? 何か変ですか? なぜ英語じゃなくて社会科の教師なのか、ということですね。
早い話が英語の先生におだてられ、日本史の教師になる勉強と同時に
英語の教師になるための勉強を始めることにしたのです。
先生は軽いお世辞のつもりだったのでしょうが、
このせいで後々、大学の授業で苦労する事になりました。
でも、その話はいつかまた…. 

大学卒業後希望通り広島県で中学校の教師をしていましたが、
縁あって金沢の街にやってきました。
遊学館高等学校は以前は金城高等学校といい、女子だけの学校でした。
ところが、平成8年に男女共学になり、そして13年には野球部ができました。
最初の年は部員の数も少なくて、慣れていないというか、
どこか覚束無い、そんな印象でした。
人数が足りないから、試合の時は出場選手もトンボを持ってグラウンド整備。
応援団がいないから、スタンドで響くのは選手のお母さんたちの声援。
ちなみに、秋の大会の金沢戦五回裏の攻撃のとき、一瞬この頃のことを思い出しました。
その年は派手なトンネルや凡ミスを披露していましたが、
翌年には、見事甲子園初出場を決めました。
そしてひときわ暑かったこの夏、野球部は5年ぶりに甲子園の土を踏みました。
Congratulations! 

私には、とっくに諦めていた夢がありました。
自分の学校が甲子園に出ることです。
中学・高校と女子校だったので、それは到底叶えられない夢でした。
その叶うことの無かった夢が、この遊学館で叶えられたのです。

今年はどこの部も大活躍です。 
とりわけバトントワリング部は、今夏宿敵PL学園を破って日本一になりました!
こんな体験、ほかの学校にいたらきっと味わえなかったでしょうね。

あなたの夢は何ですか?
ダメかなと思っていても、ひょんなことから実現する夢もあるのです。
坂本竜馬の抱いたような壮大な夢ですか、それとも至極細やかな夢ですか?
あなたの夢も叶えられますように。

最後に、全く関係ないけれど・・・
 パズル 2題   ( )に適当な文字を入れなさい。
   (1)つ-ふ-み-よ-い-む-な-よ-こ-と-じ-じ-じ-じ-じ-じ-じ-じ-じ-( )
   (2) M + L = CD + CM-( )-L  

2010年10月13日 (水)

【第154回】アフリカ旅行I. K. (理科)

 「涼しい!」7月29日正午、たった一人で、ケニアのナイロビ空港に降り立った時に最初に感じたことです。
アフリカってとっても暑く、みんな裸…と思っていたのに。
目の前のアフリカは、今まで行った国の飛行場と比べてみて、同じ景色、同じ空気、同じタクシーの列…。
でも、私の心臓の鼓動はバクバク。
やっとこさ入国手続きを終え、ここで、娘に会えなかったら、どうしよう…
このアフリカの地で野垂れ死にか…と。

周りは真っ黒な巨人ばかり。
わけの分からない言葉(英語とスワヒリ語?)、
好奇心いっぱいの目でこの変てこなおばさん外人(私のことです)を
意味ありげな目でじろじろ見ながら通っていくケニア人たちに、身の縮む思いでした。
だから、到着ロビーで娘の姿を発見したときのうれしさといったら…
娘が超美人に見え、「地獄に仏」を実感しました。

 娘は結婚して、名前は伊藤紀子、東大経済学部博士課程で、開発経済なるものを研究しています。
「アフリカ経済の貧困と対策」をテーマとして、ケニア農村を調査し、今回も6月からケニア入りし、ビクトリア湖畔のオバマ大統領の出身地近くの村で2ヶ月あまり調査していました。
現地調査も終え、後は資料を集めるためにナイロビにきて、私と合流した、という次第です。

 タクシーで、むき出しの赤い大地を土埃を立てながら中心部のダウンタウンへ。
超近代的なビル、崩れ落ちそうなビル、ただただ混沌、雑然とした町並み、ひしめき合ってる車、たくさんのケニア人が目をぎらぎらさせながら、エネルギッシュに歩いている姿に、鳥肌が立つ思いでした。大渋滞、信号は守らない。回りを見渡すと、車の半数は日本のトヨタでした。都心の一角に「EAST AFRICA OF TOYOTA」と書かれた会社がありました。

 ナイロビはイギリスが植民地化してから発展した街で郊外には欧風建築の高級住宅地がひろがり、気候は1年を通じて夏の軽井沢といった感じで年平均気温は約20度。

 でも、都会は疲れました。
都会を離れ一週間、サファリツアーに行ってきました。
アンボセリ国立自然公園、ナクル湖、マサイマラ自然公園などへ。
ゾウ、ライオン、キリン、シマウマ、などたくさんの動物達が、生き生きと暮らしていました。
ここでは、主役は動物達で、空間、時間はすべて動物中心。
われわれ人間は小さい車の中から遠慮がちに見ているだけ。

ナクル湖は湖面がピンク色に染まるくらいのフラミンゴ。
バリバリと大木を食べているゾウ、草原のど真ん中でライオンが交尾し、ラブラブで首を絡ませあっているキリンのカップル、なんかの肉を食べている太めのチーター(妊娠か食べすぎか)、その上でハゲタカがおこぼれ頂戴と待っている。まさに動物天国です。動物達ののびのびした姿に、日本の動物園の動物達の姿が重なり、複雑な思いでした。

 今回の旅行で、異文化に接することで、今までの物事に対する価値観も少し変わりました。
 動物社会は「性の公開・食の隠匿」、その中で人間はどのような過程を経て「性の隠匿・食の公開」となったのか?
現世人類はアフリカで誕生し長い年月をかけて全世界へと拡散していったといわれているのに、なぜアフリカがこのように文明に取り残され、貧困が多いのか?…などなど。

 生物の授業では、人間も動物たちの一員であるということ。
謙虚な気持ちで、自然に接しなければならない事、などを生徒達と考えながら、すすめていこうと思っています。

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2010年10月 6日 (水)

【第153回】昭和19年の卒業証書中村 裕行 (地歴・公民)

 1学期も終わり近くの暑い日、校外から1本の電話が私につながれてきました。
ご年配の方からのお電話で、聞けば「家に使わなくなった琴があるので、
有効利用できないか」との内容でした。

本校では、土曜日に自主講座という選択授業が行われており、60ほどある講座の中に「お箏(こと)」という講座もあります。

そこで、学校から程近いお宅を訪ねてみました。

 勧められるまま家にあがらせていただき、いろいろなお話を伺いました。
琴は昔、奥様が使われてきたもので、奥様は金城(遊学館の前身)を卒業されたそうです。
話が進むと、奥様の卒業証書など金城にまつわる思い出の品々を見せてくださいました。

かなり古びた卒業証書でしたが、はっきりと
「昭和19年3月14日 金城高等女学校長 加藤せむ」の文字が見てとれました。

昭和19年といえば、終戦の前年です。

本土襲撃も間近い敗色濃厚な中、この卒業証書は卒業生へ手渡されたのでしょうか。

思えば、金城遊学館の創設も明治37年(1904年)という日露戦争の年ですから、
国あげての戦時体制中、金沢の地に1つの学校が生まれたこととなります。
そんなことに思いを巡らせながら、感慨深くお話を聞かせていただきました。

 11月4日は本校の創立記念日で、11月6日(土)には同窓会総会も開かれます。
このコラムを記すにあたり、快く卒業証書や当時の卒業アルバム(もちろん英語ではなく、
「卒業記念写真帖」といったのですね)を拝借させていただきました。

機会をとらえて、お預かりした思い出の品々にまつわる貴重なお話を、生徒達や若い先生方へも伝えていきたいと思います。

入院中の奥様も快方に向かわれているとのことで、改めて直接、お礼やお話ができる日を楽しみにしております。

 

【追記】

今回のコラムで、4巡目を終了しました(全153回)。
次回からは、講師の先生方にも登場していただき、 さらに広い視点から語っていただこうと思いますので、お楽しみに……。

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<卒業証書>

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<卒業アルバム>

2010年9月29日 (水)

【第152回】母のいるうちに渡辺 祐徳 (英語)

 母は今、病魔と闘っている。
医者から2か月の余命宣告を受けたのは今月の初めのことだ。
ガンが肝臓や肺から転移して、ターミナルケアの段階に入ってしまった。
もうまともに食事ができなくなってからずいぶんになる。
体力のない母に施すことのできる治療法にも限りがある。

 物心ついたときには、母はいなかった。
同じ屋根の下で暮らしたことがないから、息子らしいことはほとんどできていない。
残された少ない時間で、母のために何ができるだろうと考えるようになった。

 肩をたたいてやりたい。もっと話をしたい。いっしょに旅行もしたい。
「おかあさん」と呼ぶ声を、何度も何度も聞かせたい。 

 どうして一番必要なときに自分には母親がいなかったのか、そんな境遇を恨んだことがなかったといえば嘘になる。社会人になってから自由に行き来するようになり、ようやく私も、これが母が一生懸命に生きた足跡なのだと理解できる歳になった。

 会いにいくと必ず「元気?」「みんな仲良くしとる?」と言ってくれる。
50になろうとしている私が一瞬、小さな子どもに戻る。
母はいつも人のことばかり気遣っている。一番辛いのは自分なのに。

 孫や可愛がっていた犬の話をすると笑顔になる。
普段はできない食事も、私がいれば食べられるという。

 ずっといっしょにいたい。長生きしてもらいたい。孫の晴れ姿を見せたい。奇跡よ起これ。

 豪快で強がりで、寂しがり屋で泣き虫で、優しかった母が今、ひとりで行こうとしている。

 「何もしてやれなかったね」「お前にすべて押し付けた」と悲しそうに言う母の言葉が胸に食い込む。
 そんなことはないよ。今あるのはお母さんのおかげです。

 せめて最後は、少しでも多くの時間をいっしょに過ごしたい。