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2024年8月15日 (木)

【第848回】「出会い」中村 ゆかり (国語)

 先日、県図書館協議会主催の合同読書会に助言講師として参加する機会を得た。
合同読書会は助言講師が課題として提示した図書を読み、感想を始め、個々人の考えをぶつけ合って「読み」を楽しむ研修会である。会に参加希望をする県下の高校生が一堂に会して、それぞれ選んだ分科会にて侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を重ねる。ここ数年は様々な事情のため、参加を希望する生徒の数が減っているのが現状である。今年度も10人程度の参加者数ではあったが、三つの分科会を設けることができ、有意義な活動となった。
 私が担当する分科会には、進学校の生徒が3人参加してくれた。3人とも課題図書をしっかり読み、読後の感想も各自がワークシートに丁寧にまとめてくれていた。もともと同学年で同じクラスの級友同士ということもあって、和気あいあいと楽しみながら話し合いを重ねていたことも印象的であった。
 まずは一人ひとりの感想を踏まえて、読み終わった直後、胸中に湧いてくる感情について話してもらった。理屈で理解して分析しながら読むのではなく、小説を作者の「物語り」として純粋に楽しんでもらいたいと考えたからであるが、それぞれが自分の言葉で自分の思いを伝達してくれた。それを皮切りに、徐々に内容を読み深めていく。話し合いの段階では極力介入しないように、私は生徒たちのやり取りを見守る。「?」や「!」も三者三様ではあるが、共感場面や登場人物の捉え方が共通することもあり、意見交換を重ね、読みをすり合わせていくうちに深みを増す。

「答えのないものに対して考察する挑戦、知の活動に(ひた)れることへの喜び」

が輪には入らなくとも空気として伝わってくる。たまたま出会った他校性とこのような機会を設けられたことは、私自身にとっても学ぶべきことや考えさせられることが多くあった。本校の生徒もこの3人のように、阿吽(あうん)の呼吸でお互いの考えを理解して話し合えるとはいかないかもしれないが、授業でアクティブ活動を展開するときは実に多様な能力を発揮してくれる。「学ぶ姿勢」が準備され活動につながるとき、「考えが深まったことへの喜び、気づいたことへの喜び」へと還元される。「知」に対する満足感、達成感は大きい。
 この夏一年生には、読んだ図書の中で心に残った「一行」を選び、自分の思いを書く課題を設けた。「どの図書を選び、どの一行に心()かれ、どんな思いを持つのか」、そしてそれを「どのように言語化し、表現してくるのか」、とても楽しみである。
 たまたま出会った「本」から多くを得られる「学びの夏」にしてほしいと思う。

2023年3月30日 (木)

【第776回】「25期生へ」中村 ゆかり (国語)

拝啓  
 桜の花も見頃となり、日本中が淡い色に包まれる季節を迎えました。花開くのを待ちわびていたかのように金沢の街中も多くの人で賑わっています。
 卒業から一ヶ月、25期生のみなさんはもうしばらくで新しいスタートを迎えることになりますが、毎日を充実させていますか、心と身体の準備は整っていますか。
 これまでを振り返ってみると、「あっという間だったな」という思いが強いのではないでしょうか。皆さんの高校生活はまさしくコロナ禍とともにあった3年間でした。卒業式の答辞にもありましたが、入学直後の休校に始まり、分散登校、行事の中止、と予期せぬことが相次ぎました。加えて部活動でも、ほとんどの大会において中止という状況でした。授業も同様で、さまざまな活動をよりよく実践するために必要なコミュニケーションに、制限が掛けられたものとなりました。
 「自分たちの高校生活はこんなはずじゃなかった」と3年間を振り返った作文の中に書かれた言葉に、誰が悪いわけでもないのですが、人として、教師としての無力さを感じずにはいられませんでした。国内外の感染に関する情報や実情に左右され、前向きになった気持ちを何度も打ち砕かれる本当に落胆の多い学校生活だったと思います。それでも皆さんのエネルギーは有り余るものがありました。できる限りの工夫をして臨んだ授業や進路決定に向けての取り組み。経験値が少ないながらも、仲間と助け合い、後輩たちの協力や先生方のアドバイスを受けて取り組んだ体育祭や学園祭。仲間と盛り上げよう、後輩たちをリードしようと行事の成功に向けて懸命でした。ときにその思いが先走り、友達と衝突したり、先生方から注意を受けたりすることもありましたが、それも皆さんには必要な経験であったと思います。
 この3年間、本当にいろいろなことがあり、もどかしい思いを味わったことだと思います。未だ充分な手立てがなく、これからも何が起こるか予測のつかないのが現状です。それでも数多くの試練を乗り越えた皆さんのこれからが、希望ある前途であることを願っています。

夢見てた未来は それほど離れちゃいない
また一歩 次の一歩 足音を踏み鳴らせ!
時には灯りのない 寂しい夜が来たって
この足音を聞いてる 誰かがきっといる

敬具

2021年9月23日 (木)

【第699回】 「拾う」中村 ゆかり (国語)

 コロナ禍に見舞われ約一年半、日々暗いニュースが続く中、オリンピック・パラリンピンクでの日本人選手団の活躍ぶりに、多くの感動と勇気を貰った夏となった。
 これまでの競技人生を4年に一度の祭典にかける各国選手のことを思うと、感染拡大の懸念はあったが、一年の延期を経て実施されたことは本当に良かったと思える。私個人としては国内開催というメリットもあってか、想定外のメダルの獲得数に正直驚いた。ただ前評判が高かった競技でメダルがとれなかったことはとても残念ではあるが…。それでも朝夕もたらされる選手の勇姿に沸く国内の様子を目にするたび、スポーツの持つ「不思議な力」を改めて感じるとともに、世界と戦うための並々ならぬ努力が実を結んだのだなぁとしみじみ思う。
 スポーツ界で輝く日本人の中でも今、もっとも注目されているのはメジャーリーグに所属する「大谷選手」であろう。高校野球は別だが、プロ野球に強く興味がない私ですら日々のニュースでその活躍ぶりを目にすると「すごいな」と感心する。つい先日、実践での活躍とは異なるところでの称賛を耳にし、勝手ながら強く親近感を覚えた。彼は試合中であっても、フィールドやベンチのゴミを拾う。「他人の落とした運を拾う」という。高校球児であったころの習慣をいまだに実践しているとのことであった。海外メディアもその振る舞いを、こぞって称えていた。
 本校の部活生たちも運動部、文化部に関係なく練習前後に校内外で清掃活動をしている。大谷選手同様、「運を拾っている」のである。大会や練習もままならず、いろいろと制限が続く中、それでも生徒たちは「元気」である。練習帰りの生徒たちに出会ったとき、私との遭遇に驚きながらも「先生、さようなら」としっかり挨拶をしてくれる。そんな生徒たちのガンバリが収束に繋がってくれたら…と願うばかりである。
 「他人が落とした運を拾う」ことで自分たちのウンキを高め、コロナに負けない学校生活を送ってほしい。

2020年4月30日 (木)

【第626回】 「春の心」中村 ゆかり (国語)

 年号も改まって令和初の4月も終わりに近づき、1年の限られた期間、日本中が淡く幸せな色に包まれる季節が過ぎ去ろうとしている。ちまたでは時ならぬウイルスにより、緊張を強いられる日々が依然として続いていて、毎年花見客のマナーが取り沙汰されるニュースも、今回ばかりは様相が一変していた。
    世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
    (もし世の中に桜がまったくなかったなら、春を過ごす人の心は
     どんなにのどかであることでしょう)
世の中に桜がまったくなかったなら、人々は桜の開花を待ち望んで「咲いた、咲いた」と騒いだり、桜が満開を過ぎたら「散った、散った」と騒いだりすることなく、心穏やかに春を過ごすことができると業平は平安の人々の「桜」に対する心情をこのように うた った。一見、春の平穏を望んでいるかのようにとれるが、業平自身の桜に対する強い思いが伝わってくる。貴賤を問わず、当時の人々に桜が与えていた感動は大きく、その心は1000年の時を経た現代の私たちにも通じている。世の中が穏やかだからこそ花の移ろいに一喜一憂できるのであり、古人も現代人も桜に心を乱されている状況がどれほど平和であるか、その有り難みが痛感させられる。
 春は学校、企業…様々なことが動き出す始まりのときでもある。そう考えると肝心なスタートがスムーズに切れないことに一抹の不安を感じさせられる。本校もこの春411名の新入生を迎えた。意欲に満ちて、これからの高校生活に期待を抱いていた新入生たちも出鼻をくじかれた思いであろう。1年365日、数日を除いて生徒の声が絶えることのない学舎が静まりかえっていることはなんとも寂しい限りである。心なしか中庭の創設者像の表情も曇っているように見受けられる。伝えたいこと、たくさんの経験を積んでほしいこと、人として大きく成長してほしいこと、泣いて笑って悩んで…一緒に学びたいことは山ほどあって、10代の輝かしい貴重なこの時を少しも無駄にさせたくはない。
 桜もとうに見頃を過ぎ、間もなく目に眩しい新緑の時が巡ってくる。1000年前の古人が桜に心を乱されていた春のように、穏やかに季節の移り変わりを送くる日常が戻ることを心待ちにしている。

2018年12月13日 (木)

【第558回】 「制服」中村 ゆかり (国語)

 先日、某TV局の開局記念番組を目にする機会があった。2018年に至るまでの時代の変遷が記録された画像が流された中に、ほんの一コマだが、一瞬で分かる本校のセーラー服が映った。はじける笑顔で街を歩いている女子校時代の生徒の様子は、見ている方にもさわやかな印象を与えるものであった。

 本校のセーラー服は、太い線の内側に細い線と二本の白い線が襟を縁取るように並んでいる。母子線(おやこせん)と呼ばれ、太い方が母を、細い方が子供を表している。また太い線は女性の忍耐強さ、細い線は繊細さと優しさを表していて、二つの意味を持つ。スカートの襞(ひだ)も一般的なものとは異なり、その向きが同じ方向に一周するのではなく、前に中心が来るように寄せられている。私自身の母校はブレザーにボックススカートであったため遊学館高校に着任した当初は、高校でのセーラー服が逆に新鮮でもあった。
 同様に雪の結晶の中に白梅をあしらった校章もその「いわれ」を知ると、創設者の生徒に対する溢れる慈しみの思いが伝わってくる。遊学館高校として共学になってブレザースタイルも導入されたものの、歴史ある思いのこもったセーラー服は現在でも、多くの女子生徒が選択している。

 平成もまもなく終わりを迎える。時代の流れとともに防寒として、指定のセーターを着用しているが、式典等では正装になる。生徒には「正装」ということの意味を改めて考えてもらいたい。時代は変わっても、受け継いでいくものは厳粛に受け止めていかなければならない。冒頭の女子校時代の生徒のように、ブレザー、セーラー共に制服を「着る」のではなく「着こなせる」生徒であってほしい。

2017年7月13日 (木)

【第486回】 「つなぐ」中村 ゆかり (国語)

 一ヶ月前のことになるが、6月に体育祭が実施された。本校の体育祭は3年生のクラスの数だけ色別の団があり、1,2年生も含めた縦割りの団編成になる。昨年は3年生の担任として3年生が1,2年生を上手くまとめられるか心配だったが、今年は1年生の担任として右も左もわからない彼らが、他学年の足を引っ張るようなことがなければいいなという思いでいっぱいだった。
 当日は天候に恵まれてクラスの生徒は欠席者もなく、それぞれの出場種目や同じ団の仲間たちの応援に、ちからいっぱい取り組んでいた。その姿に普段の教室での表情とは違った一面を見ることができ、嬉しさを感じた。準備期間が短いため気がかりだった応援合戦も、振り付けをしっかりと覚えてリズムに乗りながら3年生、2年生とともに頑張っている様子も微笑ましかった。振り返れば、前日の応援練習から3年生が優しく丁寧に1年生をリードしてくれていたと思う。教師の側が「大丈夫かな」と多少不安を抱いても、脈々と受け継がれている『遊学魂』― 先輩が後輩をリードし、後輩は先輩の指導を受けながら成長していく― そんな様子に反映されていることを強く感じた。
 後日1年生には朝読書の時間を使って、感想とともに3年生に向けてメッセージを書かせた。一言くらいで簡単に書いてもらうつもりだったが、予想に反してたくさんの言葉を綴ってくれた。初めての体育祭だったが、先輩が優しく教えてくれたことに感謝をする言葉や自分たちのときにも盛り上げたいという意欲的な言葉、そして受験を控えている先輩に頑張ってほしいというエールの言葉…
 3年生の活躍は大きな財産となって、確実に1年生の心に残っていることを改めて実感させられた体育祭であった。

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2016年2月18日 (木)

【第413回】 「辻占」中村 ゆかり (国語)

『足るを知る』― 今を満ち足りたものとし、現状に不満を持たない者は、満ち足りた心で生きていける。己の身の程を知り、それ以上を望まない事が、豊かに生きるということである ―

 2月10日、今年度の「遊学生の主張コンクール」が実施された。1,2年生全員が日頃考えていることや感じていることを冬休み中の課題として800字程度で主張文を書き、各クラス代表者を1名選出して発表する。今年は例年以上に素晴らしい発表内容が多く、どのクラスも本当に健闘したと感じられるコンクールであった。
 冒頭は今年の私のクラスの代表生徒の主張タイトルに続く言葉である。彼女は家族恒例としている辻占で、今年引いた『足るを知る』という言葉の意味を知ることによって、自身の十七年間を振り返った内容の主張文を書いた。
 反抗期の中学時代に「努力したら絶対いいことあるし、楽しいことたくさん待っとるよ。」と見放すこと無く声を掛け続けてくださった中学校の先生方、辛いとき悩み事を聴いてくれ、笑顔にしてくれた先輩や仲間達、そして十七年間、道を逸(そ)らすことのないように厳しくも愛情を注ぎ育ててくれた両親、これまで自分を支えてくれたすべての方々に心からの感謝を伝えたいという思いが綴られていた。
 彼女の溢れんばかりの思いの詰まった主張文。加賀の正月の縁起菓子として親しまれてきた辻占を毎年恒例とするステキな御両親のもとで育ち、たくさんの方々の支えがあってこそ今の幸せな自分があることに気づくことができた。まさに「足るを知る」である。そうした自身の思いを上手く言葉に載せて表現できたことは、授業とは別の場面での生徒の成長ぶりを見ることができて嬉しい限りである。私はここ数年、クラスの生徒達の主張文を3学期の成績表とともに保護者の方々へ送付している。生徒一人一人が今の自分を見つめ、自分の言葉でまとめた文章に目を通すことで、それぞれが考えていることを保護者の方々にも共有して頂きたいと考えているからだ。私同様、我が子の成長を実感して頂けることと思う。

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 来年、人生二度目の大きな岐路に立つ彼女は、併設校への進学を目標としている。
 文は努力を重ねて自身の目標を達成し、将来の夢を実現することで支えてくれた方々に「ありがとう」を伝えたいと締めくくられた。

2014年9月25日 (木)

【第345回】 「原点」中村 ゆかり (国語)

 9月3週目の連休に、第16回北信越高校生文芸道場に参加した。運動部と違って、競って順位がつくというものではないが、北信越地区における文芸の新人大会に当たる。二日間にわたって開催され、北信越地区(福井、富山、長野、新潟)から多くの文芸部に所属する高校生たちが一堂に会した。本校の文芸部員は人数が少なく、日頃の活動もかなり制限された形で行っているため、1年生にとっては初めての大きな大会となる。参加するためには必ず文芸作品を出品することが条件で、今回、参加するまでの準備を含めて生徒たちが得たところはとても大きかったと感じさせられた。

 大会初日は文学散歩からスタートし、近代文学館と21世紀美術館を訪問した。文学館では三文豪を始め、県にゆかりのある作家たちの生い立ちや作品集などが展示されており、改めて認識する内容も多々あった。またその後の交流会では、公立高校の実行委員である生徒たちが様々な工夫をし、二日目の研修に向けて、より一層充実した活動となるように親睦を図るプログラムを用意してくれた。毎年、開催県の実行委員となる高校生たちの企画で文学的要素を絡め、趣向を凝らしたグループエンカウンターが行われる。その活動を通して、参加者同士の距離が少しずつ近づいていく。二日目は各部門に分かれて、事前に提出した作品を評価したり、当日、課題を与えられて創作をするという活動を行った。本校の1年生二人は、日頃教室でも発言が少なく目立たない存在で、上手く活動に参加できるか不安はあったが、自分の考えを自分の言葉で第三者に伝えることが出来ていた。俳句部門に参加した生徒は、部門に参加する人数が少なかったこと、指導講師の先生が適切なアドバイスをしてくださったことが相乗効果を生み、活発に意見交換が出来ていた。何より、二人の1年生の知的好奇心に満ちた生き生きとした表情が印象的であった。本当に「いい顔」をしていた。

 同じ週の遊学講座、巡回先のクッキングスクールでの校長先生のお話に、御自宅で60年育てていらっしゃるマスカットのことを伺った。農家のように、こまめに手入れをしていないが毎年必ず実をつけるそうである。昨今は果物に限らず、甘みの強い食材が店頭を賑わわしている。どうやら物によっては甘さを引き立たせる肥料を与えてあるらしい。そんな中で、当たり外れはあるが「自然の味、おいしさ」を味わって欲しいとのお考えから、受講している生徒たちに「おすそわけ」をしてくださった。これから「食」は作ることも食べることも「原点」に戻っていくという言葉とともに。

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 文芸道場での生徒たちの自然な表情・笑顔を見たとき、創作も自分自身を掘り下げていく、原点に向かっていく活動だと再認識した。その活動を通して一回りも二回りも「おいしい」人に成長して欲しいと思う。

2013年5月30日 (木)

【第281回】 「旬」中村 ゆかり (国語)

 「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」と素堂の句にありますが、さわやかな陽光のもと、目にもまぶしい青葉が「旬」の季節を迎えました。京都では秋の紅葉と並んで、床に映った5月のもみじを愛でる門跡もあるほどです。「旬」とは「季節を先取る<はしり>と呼ばれるもの、素材が一番美味しい時期」といった意味があります。<はしり>と呼ばれるものは希少性も値段も高くなりますが、日本ではこの季節の初鰹に代表されるように「初物を食べると75日寿命が伸びる」といわれ「旬」を食する習慣があります。四季に恵まれたこの国は、折に触れて私たちを楽しませてくれる花や食材があり、改めてそうした環境の中で生活できることの「有り難さ」を実感します。

 先日、サッカー界の貴公子デイヴィッド・ベッカム選手が引退を表明しました。まさにサッカー現役選手としての「旬」を終わらせようとしています。スポーツ界にありながら、彼ほど折に触れて世界を賑わした人物はいないのではないでしょうか。髪型、ファッション…職業に直接関わらないプライベートに至るまで。ともあれ第一線で活躍することは並々ならぬ精神力を必要としたことと思われます。そんな貴公子もラストゲームでピッチを去るときに、その目には涙がありました。人は一つの節目に立たされるとき、これまで歩んできた「道」を振り返るとともに、心中には様々な思いを抱くのでしょう。そして苦しかったことも、嬉しかったことも、すばらしい思い出として「一生の宝物」になるのだと思います。

 時はまさに総体・総文目前!一年生は初めての、2年生は昨年の思いを胸に秘めての、3年生は高校生活を総括する一つの節目としての大会や活動になることでしょう。ベッカム選手だけにかかわらず、人間には必ず一線を退く日がやってきます。その時にどんな思いを抱くかは、それぞれの道に「どのように取り組んできたか」にかかっていると思います。10代の一番輝かしい「旬」のときを、力いっぱい謳歌してほしいと思います。
 『 がんばれ遊学生!!』

2012年2月 9日 (木)

【第219回】 「四十にして惑わず」中村 ゆかり (国語)

 遊学館高校初任の年、「生徒指導だより」に載せる挨拶文を依頼された。

 『明るいクラス、元気なクラス、落ち着いたクラス…クラスにはそれぞれの雰囲気がある。そしてその雰囲気を作るのは、クラスの生徒一人一人である。みんながステキな顔ならば、素晴らしいクラスになる。そんなクラスを目指して、一人一人が持っている力を発揮しよう。』

といった内容のことを書いた。

 これまで数多くの生徒の「顔」と接してきた。それぞれの生きている毎日が、それぞれの表情に現れてくると日々、実感している。落ち着いた良い表情の生徒は、毎日の学校生活が充実しているのだろう。逆に、元気が無く冴えない表情の生徒は、悩み事があったり、生活習慣が乱れていたりするのであろう。個々人に色々な出来事があるのだろうが、それでも一人の生徒が入学して卒業するまでの3年間、様々な経験を積んで確実に成長を遂げていて、「大人」の顔に近づいていく。学校という場所だからこそ、そうした生徒の成長に関わることができるのである。

 あの時は、まさに生徒に向けて書いた文章だったが、この頃その初任当時の「自分」をふとしたときに、思い返すことがある。毎日多くの生徒の「顔」と接しながら、自分自身の「顔」は成長しているかどうか。孔子の言葉のように「不惑」と胸をはって言えるだろうかと。

 まもなく3年生は卒業の時を迎える。この学舎で生活した日々がそれぞれの「顔」を作ってきたことと思う。この遊学館で送った高校生活で培った経験、自信を胸に更なる飛躍を遂げてほしい。そして20年後、胸をはって「不惑」であると言えるようであってほしいと願う。