« 2019年5月 | メイン | 2019年7月 »

2019年6月27日 (木)

【第585回】 日記3日分A. K. (理科)

今回は、この1週間の出来事を3日分の日記にしてブログに載せることにしました。

6月19日
 アメリカからの留学生M君の最後の登校日だったので、授業が終わる5分前に彼に英語でメッセージを送りました。
 学校生活は楽しかったですか?たくさん友達はできましたか?いろいろなところに出かけましたか?理科の授業に出席してくれてありがとう。また会える日を楽しみにしています。

 M君からも英語でメッセージをいただきました。
 日本での生活はとても楽しかったし、ここに来てよかった。友達もたくさんできた。金沢も大好きだけれど、京都が印象に残っている。昨年度からありがとうございました。また会う日まで!

 私たちのために、ゆっくり英語で話しをしてくれました。最後まで優しかったM君でした。

6月21日
 帰宅する途中に、呼び止められて振り返ると、3月に卒業したT君とA君でした。数ヶ月でずいぶん大人っぽくなっていて、びっくりしました。声をかけてくれてうれしかったです。社会人1年生、頑張って!

6月22日
 ツエーゲン金沢とアルビレックス新潟の試合の日でした。新潟出身の私にとって、今日の結果は、・・・(泣)、でした。応援に行きたかったな〜。

2019年6月20日 (木)

【第584回】 リベンジA. K. (保健体育)

 今年のインターハイ卓球競技は、鹿児島で開催される。
 昨年の愛知インターハイでは、学校対抗において初めて決勝に進出したものの、決勝戦では0-3で四天王寺高校(大阪)に敗れ、2位という悔やまれる結果に終わった。
 この四天王寺という学校は、昔からインターハイや全国選抜において何度も全国優勝をしている常勝チームであり、現在はインターハイ学校対抗で6年連続の優勝をしているチームである。高校卓球界に所属している人で、昔からの伝統校であるこのチームを知らない人はいないだろう。
 今年のインターハイでは、四天王寺高校と決勝で対戦する組み合わせになっている。まずは、チーム総力戦で決勝まで勝ち上がり、決勝の切符を手にしたい。そして、決勝戦では昨年のリベンジを!!伝統校の壁を越えることは容易ではないが、県勢初の優勝旗を石川県に持ち帰ることを目指して、精一杯練習に励みたい。
 先日、北信越高校総体が福井県で開催された。結果としては、学校対抗・ダブルス・シングルスの3種目において優勝をすることができた。チーム全体としての成長を感じながらも、部員にはインターハイまでにさらなる成長を期待したい。
 インターハイまであと2カ月、日本一に向けてしっかり準備し、決勝戦でリベンジしたい!

20190620

2019年6月13日 (木)

【第583回】 「人間は万物の尺度である」松田 淳 (地歴・公民)

 2019年6月11日(火)本日の3年生『倫理』の授業で取り上げた言葉が、古代ギリシャの代表的ソフィスト、プロタゴラスが語った「人間は万物の尺度である」という言葉です。
 プロタゴラスは、真理の基準は一人ひとりの感じ方・とらえ方によって変化するもの、それまでの絶対的な「真理」と考えられてきたものは人間のとり決めに過ぎない、一人ひとりの判断が物事の真偽を決めるのだとしたのです。
 ひと通りの説明を終えて、この「人間は万物の尺度である」という言葉に賛成か(受け入れられるか)、反対か(抵抗感を感じるか)とクラスの生徒たちに聞いてみました。

【賛成派】・一人ひとりの考えが尊重されるようなイメージを持つ。やる気がわく。
     ・自分のことは自分で判断すべきだと言われているよう。
     ・様々な意見や価値を認めるべきだと思う。
     ・今やっていることを見直すきっかけになるような言葉。
     ・人間には“考える”という能力が与えられている。存分に発揮すべき。
     ・ひとつの考え方、一人の考え方に縛られる必要は無い。多様であるべき。

【反対派】・“万物”という言葉がひっかかる。そんなに人間って偉いか。
     ・人間って傲慢(ごうまん)だ。人間だけがこの星に生きているのではない。
     ・一人ひとりの判断がすべて正しいとは限らない。
     ・この世の中が収拾つかず、まとまらないような気がする。
     ・人間の許容量には限界がある。本当にすべてを判断できるのか。
     ・いじめや体罰が人それぞれの考え方によって認められることにならないか?

 高校生の感性はとても良いですね。ハッと気づかされます。私が高校生の時にこのような考え方や発言ができたかなぁと振り返ります。
 高校時代は正義感が強く、大人の正しい行為には共感し、ズルい行為には見抜く力を持つ。かといって、自分自身の弱さや能力の限界がわかるがゆえに困難から避けたい、楽をしたいとも思う。ゆえに、その尺度は一人ひとり様々であり、日々、揺れ動いている!?
 実は、実験をしてみました。あるクラスには解説として賛成派の意見を先に紹介しました。すると、賛成論・反対論では賛成論が多数になる。別のクラスには、反対論から先に解説する。結果、議論の場では反対論が多くなる。(もちろん誘導していませんよ。)
 それだけ高校生は純粋というか、まっすぐに物事を吸収する。(吸収してしまう。)
 さて、今日の授業を受けた皆さん!
 世の中はある意味、「人間は万物の尺度」でなければならない。でも反面、「人間は万物の尺度」でないこともたくさんある。それを見極めるためには、バランスよくいろいろな教科の考え方を学ぶべきです。そして、いろいろな人に出会って、いろいろな考え方に触れることが大切です。
 3年生のみなさん!卒業して進学する人、働く現場に入る人といろいろな進路に進むでしょう。社会に出て、しばらくしたらもう一度、「人間は万物の尺度か?」と聞いてみたい。大人になった皆さんは、どのように答えるでしょうか?
 まずは、高校生としての今の感性を大切にして、高校時代に何を考えていたか記憶に留めておいてくださいね。一つひとつが成長へのステップなのです。

2019年6月 6日 (木)

【第582回】 恩師の思い出渡辺 祐徳 (英語)

ある朝,職員室の電話が鳴った。
「Nさんという方からお電話です」
Nさんという名前は,自分の記憶の中ではたった一人しかいない。
小学校5年生と6年生の2年間,クラスの担任をしていただいた先生だ。
書道の師範でもあり,その達筆ぶりは,教科書の手本として載るほどだった。
第二次世界大戦時には出兵され,苦労されたお話は今でも強く印象に残っている。

「おぉ,渡辺君か!」
まさかと思ったが,受話器から聞こえたのは,紛れもない,N先生のお声だった。
もう90歳になるという先生のお声は,わずかにかすれて聞こえはしたが,あの頃と同じように力強かった。
お互いの近況を交わしながら,先生が私のことを覚えていてくださったこと,
そしてわざわざお電話をくださったことに,感謝と感動を覚えた。

私が先生のクラスの生徒になったとき,先生はすでにベテランの貫禄たっぷりだった。
悪ガキ連中もそばを通るときは緊張したものだった。
私も悪友たちと先生を手こずらせたクチだ。
運動会の練習では,いつまでもダラダラとおしゃべりをしていて,案の定,先生から目をつけられた。
こんな時先生は,まるで下っ端の兵士を懲らしめるように
「目をつぶれ!歯を食いしばれ!」
と言って,強烈なビンタを見舞われた。
それが頬を直撃したときは本当に痛かった。

いつも叱られていた私は,何度も先生の平手打ちを受けるうちに要領を覚えた。
その大きな手が当たる瞬間,大げさに体を振って,痛くないようにしていたのだ。
それも先生はお見通しだったはずだ。
だがそんなときも先生は,それ以上私たちを追い詰めることをされなかった。
厳しさの中の優しさ,暖かさを教えてくださっていたのだと思う。
先生のクラスで学んだ2年間は,私の人生の中で,貴重な思い出となっている。

先生,ごめんなさい。
今の時代で,ご自分が力で制する教師だったように受け取られると,不本意でしょう。
しかし理由があって叱られるのだから,当然ですよね。
私は先生のご指導で学び,成長することができました。
先生には畏怖の念こそあれ,嫌だと思ったことは一度もありません。
本当にありがとうございます。

N先生以外にも,素晴らしい恩師との出会いがあるが,文字数の都合上,またの機会に書きたいと思う。
学校生活で教えていただいた中で忘れられないのは,厳しい先生が多い。
どうしてだろう。
実はそういう先生は厳しいばかりではないのだ。
言い方を変えれば,本気で接してくださった先生ばかりだ。
厳しさと同じぐらいの愛情を感じられれば,生徒にとって,一生の恩師になるのだと思う。

現代の中高校生や若い世代の人たちに言いたいことがある。
道徳的な価値観や判断基準は,時代の変化に伴って,変わるものだ。
現代は非常に速いスピードで,価値観が変化している。
まさに今は過渡期と言っていい。
今は正しいと言われることが,数年のうちに変わることもあるだろう。

私は厳しいながら,本気で関わってくださる先生方に学び,成長することができた。
決して力や強い言葉による教えを肯定するのではない。
しかし,深い愛情と強い精神力が基盤となって,日本の発展の礎を築いた時代があったことも知っておいてほしい。
誤解がないように願いたいが,私が尊敬する先生方も,生徒を傷つけることは一つも望んでいなかったはずだ。
方法論は様々だが,体当たりで教育に携わる先生に,生徒が学び,成長する。
一つの理想であるかもしれないが,その状態が当然であるとも言える。

過去を知らない,声の大きな人たちと,現代の速い変化にとまどいと疑問を抱く者たち。
今はその両者が混在する時代だろう。
お互いを理解しながら,新しい時代を築いていけたら素晴らしいだろうと思う。