2013年2月21日 (木)

【第268回】 学校は百代の過客にして、行き交う生徒もまた旅人なりS. Y. (理科)

 2月は、本校の高校入試や3年生の仮卒業式、自主講座の閉講式など行事が多い。その一方で、もうすぐ新学年を迎えることになる。毎年、1年生特進クラスを担当している私は、2・3年生特進クラスが横並びということもあり、自分が1年生のときに担任した生徒とよく階段や廊下ですれ違う。そして、必ずと言っていいほど、「もうすぐ3年生だね」、「もう卒業?早いね!」、4月になれば、「もう2年生?この間、入学してきたと思ったら」、「あっという間に3年生やな」などの言葉を生徒にかけている気がする…。中には本校の入学試験で出会ってからの付き合いの生徒もいる。こういった1年1年の生徒の成長を見届けられるのは教師をやっていて楽しい部分である。

 しかし、本当に月日が経つのは速い。それは我々に無言のプレッシャーとなって重くのしかかってくる。この短い3年間でどれだけ生徒達を成長させてあげられるか?この課題をクリアすべく私たち教員の教育活動が行われているのである。この限られた時間の中で、〈生徒の努力+教員の努力=最高の結果〉となるように今日も授業をしている。

 もうすぐ新たな旅人たちが本校にもやってくる。どんな1年になるだろうか。楽しみである。

2013年2月14日 (木)

【第267回】 「超々高齢社会」どう生きるのかS. N. (英語)

 電車やバスの中、デパートで買い物する人、街中で見かける人、どこでも、高齢者の占める割合が多くなったような気がする。戦後、産めよ増やせよと、合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子どもの数の平均値)が4人を超えていた、いわゆる団塊の世代の時代から、徐々に出生数が減少し、1989年には親世代を支えるのに必要な2人を初めて下回り、以後、少子化が続いている。2000年に入り、1.26という最低値を記録してから、今日、1.3人辺りで推移している。今後、この状態が続くとすれば、ますます少子化に歯止めがきかず、高齢者を支える世代の減少は危機的状況に陥り、2050年頃には、人口の約半分近くが高齢者という「超々高齢社会」を迎えることになる。

 生まれた時から周りには物があふれ、何不自由なく成長したであろう現代の高校生たちには、自分たちが社会の中心となって活躍する時代が、どんな世の中に変わっているのか、想像をすることが困難だろう。しかし、これが現実なのである。このことを、私たちは皆、各々しっかりと受け止めなければならない時期にきている。人は一度オギャーと生まれるや、誰しも高齢期という人生の終末を迎えるのである。自分が高齢者になった時に、どう生きたいか、どう支えられたいか、高齢期の人生設計を考えておくことは、もはや高齢者だけに限ったことではない。

 加齢とともに人は皆、身体機能が衰えていく。これまで出来ていたことが、出来なくなり、人の手を必要とするときが必ずやってくる。高齢の両親、とりわけ、認知症の母の介護を通して、学んだことが多かった。排泄機能の衰えがひどく、尿失禁には、正直なところ悩まされた。毎晩、寝る前に、布団におねしょシーツを敷き、おむつを当て寝てもらっても、朝方起きてみると、おねしょシーツを毛布代わりに掛けていて、布団は濡れ、本人の着ているものも、ぐっしょりだった。朝は戦争だった。それから、本人を着がえて、濡れたものを一式洗濯し、布団を干し、朝ごはんを作り、昼食用のご飯も用意して、それから、学校に出てきていた。あの頃は、自分が大変なんだ、自分がと、自分のことしか考えていなかったように思う。母の立場に立って見れば、おねしょシーツを濡らしていけないから、と逆に迷惑をかけないための行為だったのかもしれない。おむつも時々はずして、隠してあった。布団の下や、こたつの中、特に腹が立ったのは、きれいに洗濯してある、衣類の間に隠してあった時だった。これも、汚しちゃいけない、汚してしまった、申し訳ない、そんな思いからの行動だったかもしれない。徘徊もあった。何度も警察の御世話になった。親の介護と一口に言うけれど、こんなに大変なことはない。その負担を救ってくれたのが、社会の仕組みだった。2000年から始まった、介護保険制度のおかげで、家族だけでなく、社会みんなの手で介護する時代へと変わってきた。

 近い将来、高齢者が高齢者を介護する時代がやってくるだろう。元気な高齢者と虚弱な高齢者、この両者を分けるのは一体何なんだろうか。父親は3年前に他界したが、死ぬまで、気もしっかりして、認知症の母を気遣い、支えていた。その父は、趣味の盆栽が自慢で、体力の衰えを防ぐための畑仕事などにも精を出し、どちらも、良く出来たものは、惜しみなく、人様にあげることが喜びである人だった。いつも、前向きに物事を考え、相談を持ちかけると、「明日は明日のこと」と言ってくれて、そうだなあ、考えていてもしょうがないかと思えてくるのだった。「他力本願」(仏教の世界では意味は違うのだが)という言葉があるが、他人を当てにして生きる生き方か、自分の人生にきっちり責任を全うする生き方か、その差ではないだろうか。

 自分が将来どうなるか予想もつかないが、世話をされる高齢者になるよりは、世話を出来る高齢者でありたいと願うところである。

2013年2月 7日 (木)

【第266回】 父親の死城丸 哲宏 (地歴・公民、福祉)

 先日の1月13日に父親が73歳で他界しました。昨年の10月頃に病気が発覚し、あまり長くはないということは病院の先生から聞いていたので、多少の心の準備はできていたつもりでしたが、わずか3ヶ月余りで逝ってしまいました。
 あまりにも突然の出来事ばかりでしたので驚き、とまどうことばかかりだったのですが、今思うと親孝行らしいことがほとんど出来ていないことに気づき、後悔ばかりです。今さら後悔してもしかたないのですが、このような気持ちです。
 親が亡くなるということは、可能性としてあるということはもちろんわかっているつもりだったのですが、実際に体験してみると予想していたよりも遙かに悲しく、つらい出来事だということに気づきました。また、お通夜やお葬式に参列して下さる方々へのありがたみや一言声をかけて下さる方々への感謝の気持ちが自然と湧いてきて、自分でも驚いています。
 今回の体験を通して、今までわからなかったことに気づくことが出来たことは良かったと思います。これからは、父親の意志を継いで頑張ってゆきたいと思っています。

2013年1月31日 (木)

【第265回】 < 成幸者 >S. J. (地歴・公民)

 3年生もそろそろ卒業をむかえる時期になってきました。
 私は2年生の担任を何年間か続けていますが、前の年に担任だった生徒たちの進路が当然気になります。
 自分の希望通りの進路に決定したと報告をしてくれる生徒を見ると、こちらもとてもうれしくなります。しかし、残念ながら全員がそのような報告ではありません。

 ある年の3年生に「受験に失敗しました。浪人するかどうか迷っています。先生は浪人して良かったですか?」と相談されたことがありました。

 自分も高校3年の時には第一志望大学には合格せず、その時には周りの合格した生徒をうらやましく思い、「自分はもうダメだ」などとやる気をなくしたこともありました。

 しかし、変な話ですが、ちょうど予備校を舞台にしたドラマが始まり、それを見て、自分もどうせ浪人するんだったら、前向きに楽しく(?)予備校ライフを過ごそうと開きなおり、勉強にはげみました。そのおかげかは謎ですが、次の受験では第一志望に合格しました。

 大学に入学し、いくつかのサークルに入り、充実した大学生活を過ごせたと思います。それは多くの友人たちに恵まれ、視野を広げ、様々な経験をしたからです。

 そんな時に、自分が思ったのは「こいつらに出会うために、オレは浪人したんだなぁ」との思いでした。だから、「受験に“失敗”したんじゃなくて、ちょっと人生のまわり道をしただけなんだ」と考えれるようになりました。浪人して親には心配をかけたけれど、合格した時の母の涙も忘れられない思い出です。

 発明王のエジソンは、実験がうまくいかなくても「これは失敗ではなく、この方法ではうまくいかないということがわかったから成功である」と考え、あきらめることなく実験をつづけ、多くの発明品を生んだそうです。

 プロゴルファーの青木功さんは、野球でピッチャーをやっていたが、県大会への決勝戦で痛恨のサヨナラ負けをし、野球をやめたそうです。しかし、野球をやめて時間がありあまってしまったので、ゴルフ場でバイトを始め、のちに「世界の青木」と呼ばれるほどのゴルファーになったとか。

 だから、その時は救いようのない失敗に思えることでも、前向きにあきらめずに進んでいけば、後々の人生にとっては幸せにつながることもあるんだと思います。

 今年の3年生たちにも、素晴らしい出会いをし、充実した人生を過ごしてほしいと願っています。

 以前読んだ本に、こう書いてありました。

本当の成功者は、人生を豊かにする “ 成幸者 ” である。

2013年1月24日 (木)

【第264回】 球運を拾う

 私たち野球部は「感謝・挑戦」のスローガンのもと日々の部活動、学校生活、私生活に厳しく取り組んでいます。その成果が12年間で6回の甲子園大会出場、そして大学野球、社会人野球、プロ野球でのOBの活躍に繋がっていると思います。

 今年の3年生に関しても秋季県大会3回戦敗退、春季県大会準決勝敗退というなかなか結果が伴わない苦しい状況が続きましたが3年生を中心にチームが心をひとつにし夏の選手権大会では接戦を苦にせず2年ぶり5回目の甲子園大会出場を果たしました。

 その3年生も今年の春からは東京六大学リーグに2名が進学しその他にも関東、関西、地元北陸の強豪大学に進学する生徒もいます。

 このように野球の世界で活躍する生徒もいますが卒業後就職先で頑張っている生徒もいます。

 今回テーマになっている“球運を拾う”というのは野球の運を拾うということです。

 本校の野球部ではゴミを拾うことを球運を拾う、勝ちを拾うと指導しています。

 この“球運を拾う”という言葉は野球部の初代野球部長森川先生が残された言葉で今でも大会のさいには先生が書かれた“球運”という色紙を控え室に持ち込むくらい野球部にとっては大切な言葉です。

 去年の野球部の保護者会である生徒の保護者がこのゴミを拾うという行動についてある話をしてきました。その話を紹介します。

 「寮生の息子が実家に帰省したさいに久しぶりに一緒にデパートに買い物に行きました。そのときデパートの通路にレシートのゴミが落ちていました。息子は何気なくその落ちているゴミを拾いゴミ箱に捨てたんです。その姿を見て私は息子がこんなことまでできるようになったんだと親ながら感心しました。遠く石川に進学させてよかったです。」と話をされました。

 この話を聞いたときに私たち指導者の目の届かない所でも実践している姿に私も本当にうれしく思いました。

 ゴミを捨てるという誰かが犯してしまったミスをカバーするゴミを拾うという行為は言い換えればチームプレーです。
野球もどんな一流選手でもミスが起きてしまうスポーツです。ましてや技術的にも未熟な高校生です。そのミスをカバーする習慣が普段からできた成果が夏に繋がったんだと思います。

 これからも野球だけでなくすべての面で石川県をリードできる野球部をめざして精進していきたいと思います。