2014年4月24日 (木)

【第325回】 「型破り」と「形無し」K. M. (国語)

 今年もたくさんの新入生が入学しました。フレッシュな表情の彼らを見ていると、すっかりくたくたになったこちらまで新たな気持ちになれるのですから、本当にこの時期は不思議でなりません。しかしながら時は過ぎ行くもの。はや四月も半ばを過ぎ、桜の花も散りつつあります。そして世の中では今も多くの情報が目の前を流れて行きます。今回もその中でふと耳にした話をしようと思います。

 少し前、ドライブ中に聞いていたラジオ放送で、様々なスペシャリストからお話を聞くというような番組をしていました。そのときはとある歌舞伎役者がゲストで出演されていました。歌舞伎といえば親から子へと芸が受け継がれる伝統の世界。何度も同じ演目を繰り返す歌舞伎では、遺伝子によって必然的に見た目や声質が似ている人の間で芸を受け継ぎ演じることは理にかなっていることなのですが、彼は何の縁もない一般の家庭からこの世界へ飛び込み、今や人気女形の一人として活躍している人でした。
 その時に話されていたのが、タイトルの「型破り(かたやぶり)」と「形無し(かたなし)」という言葉の違いです。歌舞伎の「型」とは、演目を演じる上での標準となる定められた演技・演出のようなものです。
 彼が歌舞伎を習う上で師匠に教えられたことの一つが、その「型」を覚えるということでした。先にも述べましたが、歌舞伎の特徴の一つに同じ演目を何度も演じるというのがあります。逆の立場でいえば、観客はいつ何度見ても同じものを楽しめるということです。演じる側はその演目の「型」を知らねば舞台に立てませんし、「型通り」に演じることがまずは必要です。それだけ聞くと歌舞伎は同じことの繰り返しでつまらないと思うかもしれませんが、「型」というのは先人が追及してきたものなので見る側にとっては何度も同じ感動を得ることができるそうです。その「型」をまずは覚え「型通り」に演じることが、彼に限らず歌舞伎には大事なことなのです。しかしながら、そのことが長い間日本人が歌舞伎に魅力を感じてきた全てだったのかというとそうでもなく、やはり新しいものを求める気持ちというものがあります。すると、「だったら最初から自由に演じればよいではないか。『型』を学ぶことに意味があるのか。」と言われそうですが、客に感動を与えるためにも追求されてきた「型」なのですから、「型」にはまることなく自己流で無茶苦茶にやるほうが感動を与えられない無意味なことなのです。実はこれが「形無し」です。反対に「型」にはまってしっかり基本を学び力をつけ、そしてあえて少しはずし効果的に乗り越える。これが「型破り」です。見慣れている観客はそこに新鮮さを感じて引きつけられるのです。基本が出来ていて「型」があるからこその「型破り」なのであって、土台もないのに新しいことをするのはただの「形無し」になるだけだそうです。

 「型破り」と「形無し」。言葉というのは、少しの違いで全く正反対の意味になります。だから正しい意味で言葉を知るということは大切なのだと立場的には言いたいのですが、それ以前に気付いてほしいのが先に述べた内容は歌舞伎の世界に限ったことではないということ。どの世界においても参考になる話だと思いました。
 そこで遊学館高校に通う皆さん。皆さんにはぜひ「型破り」な人間になってほしいと願います。そのためにはまず、どっぷり『遊学館高校』という「型」にはまることをお勧めします。「形無し」にならないためにも。そして卒業を迎える頃には「型破り」な人間となって世界へ羽ばたいていきましょう。そのとき皆さんはどんな人間になっているのでしょうか。それが私たちの楽しみの一つでもあります。

2014年4月17日 (木)

【第324回】 ユウガク桜牛腸 尋史 (英語)

 先日、ハードディスクにため込んでしまったテレビ番組の整理をした。昔のビデオテープの見た目で分量を実感できないため、何となく気になって録画した番組や毎週録画の設定がしてある番組があっという間にたまってしまったのである。もう旬が過ぎた番組は見ずに削除したり、大まかに内容がわかればいいものは早送りしながら見たりして、半日作業で整理した。その中で、ある番組が目に留まった。それは「ドラゴン桜」という番組だ。私が録画したものではないが、以前から気になっていた番組だった。関心を持ったきっかけは、リクルートが運営する「受験サプリ」というサイトの中にあった「ドラゴン桜直伝!大学合格の秘訣百箇条」というコーナーである。受験勉強のコツのようなものをまとめたものだが、マンガと一緒に簡潔な言葉でアドバイスしているおり、とても分かりやすいので本校の受験生にも見せたいと思い、パソコンに保存してあるのだ。そのドラマの中で、阿部寛が演じる主人公桜木建二が落ちこぼれ生徒たちに向かってぶつけるセリフのひとつに「格差や不公平が当たり前の世の中で、受験は社会を這い上がるために唯一平等に与えられた機会だ」というようなセリフがあった。私は、そのセリフを聞きながら今春に遊学館を巣立った生徒たちの顔を思い出していた。
 本校に入学する生徒の多くは、公立高校の受験に失敗して入学してくる「不本意入学者」が多くいることは事実である。特に、特進クラスに在籍する生徒たちは、そういう生徒が多い。彼らは、夜遅くまで学校に残り、休日も学校に来て勉強している。そして、その中の一人が今春、見事に合格を勝ち取って学校へ報告に来てくれた時に「僕は公立に落ちて良かった。もし、公立に受かっていたら国公立に行こうなんて考えなかっただろうし、こんなに勉強することもなかったと思う。本当に遊学館に来てよかった。」と言ってくれた。その言葉は、私たち教員にとって何よりのご褒美であり、それまでの苦労が報われた瞬間だった。彼は平等に与えられた機会を存分に活かして次のステージに進んでいったのだ。彼のように未来に向けて期待に胸を膨らませながら巣立つ生徒を一人でも多く見送ることができるように、今年頑張るゾ!

2014年3月20日 (木)

【第323回】 年度末ですK. N. (数学)

年度末になり、来年度へ向けて身のまわりの整理をした。
いらなくなったプリントを整理しながら、ちょっと物思いにふける。
気忙しい一年だったような気もするが、過ぎてしまえばそれもいい思い出だ。
整理してみると、今年度は2年生の授業用プリントが多い。手のかかる生徒が何人かいたせいだろうか。

2年生といえば、うれしいことがあった。

3学期に期末試験のテストを返したときのことだ。
2年生の生徒Tが、思ったよりよい点数を取れたらしく、喜んでいる。
ところが、まわりから「勉強してたよね」と言われると、
「あれは勉強したって言わんよ。だって答えを写していただけだし。ちゃんと勉強している人に失礼だから」
というようなことを言った。Tがそんな発言をしたことに、僕は驚き感動した。

Tは1年のときも担当していた生徒で、手のかかる子だった。
数学ができる方ではない。僕の授業で赤点をとったこともある。
1年のころは、ほとんどノートを開かず、教科書すら持ってないこともあった。
でも、2年になって、少し勉強するようになった。
プリントを渡すと、わかるところを埋めるようになった。
「先生、ここ教えて」ときいてくるようになった。
そして、3学期は本当に頑張って勉強していた。
本人の認識では「答えを写しただけ」なのかもしれないけど、答えを写すことだって勉強のうちだ。そして、本当に「答えを写した」だけでは試験で点数を取るのは難しい。
Tは、本人の認識はともかく、まわりがいうように「ちゃんと勉強した」のだ。
Tなりに勉強したからこそ「ちゃんとしている人に失礼だ」という発言も生まれたのだろう。

Tの心の中で何があったのかはわからない。でも、Tの成長をとてもうれしく思う。
来年度、3年生の数学の授業はないので、Tと授業で会うことはもうないのだけど、 きっと、ちゃんと勉強してくれるにちがいない。

 

数学者の岡潔先生が、その著書の中で
「人は極端に何かをやれば必ず好きになるという性質を持っています。好きにならないのはむしろ不思議です。」
とおっしゃっている。
「極端にやる」というのは、たぶん「一生懸命する」とか「夢中でやる」といった意味なのだろうと思う。

新しい季節を迎えるにあたって、好きなことを一生懸命してほしい。夢中になってやってほしい。もし、好きなことがないのなら、夢中になれることを見つけてほしい。

一生懸命すれば、夢中になってすれば、結果には結びかなくても、成長できる。
そして、Tのように、成長したら、またここで会おう。会えることを楽しみにしている。

2014年3月13日 (木)

【第322回】 銀婚式中村 裕行 (地歴・公民)

 プライベートな話で恐縮だが、先日3月11日は結婚記念日だった。年を重ねていくうち3月10日とよく間違えて妻に叱られたが、3年前に東日本大震災が起こってからというもの、3・11は社会的に「鎮魂の日」となり、皮肉なことに私も結婚記念日を間違えることはなくなった。

 今年の結婚記念日は25周年という節目の年でもあった。思い返せば、結婚した1989年も昭和天皇崩御、「大喪の礼」と、社会全体が喪に服していたことを覚えている。これも皮肉なことだが、平成改元で平成元年結婚ということになったため、結婚何年目という計算だけは間違えることなく楽だった(昔、堺屋太一の「平成三十年」という近未来小説を読んだが、その平成三十年ももう間近と考えれば、また感慨深いものである)。

 平成4年、私が現在も携わっている自主講座が生まれた年に、長男が生まれた(当時は生徒会顧問も務めており、学園祭の日に生まれたことから、その年の学園祭テーマが長男命名の由来ともなった)。この年から続いている自主講座は、新年度から「遊学講座」と改称される。多少のモデルチェンジを図りながら、さらに発展させたいと考えている。

 

 年度末、「政治・経済」の授業では、国際経済を扱う。当然、日本の経済状況も紹介されるわけだが、平成になってからはバブル崩壊、「失われた20年」と、文字通り景気のいい話は聞かれなくなった。自分の実体験を交え、昭和の高度経済成長期やバブル景気の映像を生徒達に見せたりすると、それこそ驚いたような表情を示す。不幸にも、平成世代は「ぜいたくを知らない世代」とか、「夢を見られない世代」とか称されるようだ。

 ホームページ管理者という特権を使い、記念日に合わせて思い出話を重ねたが、先日の卒業式に「何か書いてください」と卒業アルバムを持ってきた生徒達へは、「日々に新たなり」と書かせてもらった。混迷の続く時代ではあるが、公私共々、そして遊学館も(となれば、日本も世界も)、夢や希望へ向かって新たな日々を刻めればと切に願う。

2014年3月 6日 (木)

【第321回】 年の初めに考えたことK. S. (国語)

 正月に、うちの嫁が子供たちに「今日はグラタンにする?スパッゲティにする?」だって・・・・私だって、お節がたべたいよ~(姑)  雑誌に掲載されていた記事です。

 おせちは「御節供(おせちく)」の略であり、五節句(正月7日・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日)の行事に由来する。奈良時代には朝廷内で節会として行われ、そこで供される供御(天皇の飲食物をいった語)を節供(せちく)といった。そして、この五節会の儀をならって、今日のようなおせち料理が形作られたといわれています。
 おせち料理には長い歴史があったのです。この1年が健康で幸せであることを祈念する思いが詰められているのです。だから、お重に詰められる料理も縁起もので、エビ(長生きを象徴)や昆布巻(健康長寿)、数の子(子宝と子孫繁栄)などなどが、美しく盛られているのです。節日のうち最も重要な正月だから、自然に力がはいるのでは……。

 だから、「お姑さん」、あなたの気持ちわかります。「お嫁さん」わかってよ~!

 私の幼き頃のおせち料理です。煮しめを中心に酢の物、焼き物、数の子、金時豆(我が家では黒豆でなかった)、卵巻、くわい(子供のころは食べられなかった)、ユリ根、練り物、棒だら(これ嫌い)などなど・・・・ です。12月31日の夜、銭湯から帰って、母が一人でせっせと作っていた傍でつまみ食い。おいしっかった~! そうだ、我が家では、正月三が日は、雑煮やご飯を炊くこと以外あまり火を使いません。当時はお店屋さんも正月休みだから、そんなものだと思っていました。調べてみると、そこにも意味があったのです。歳神を迎えて共に食事を行う正月の火を聖なるものとして捉え、神と共食する雑煮をつくるほかは火を使うことをできるだけ避けるという風習に基づくものらしい。(私の母がそのことを理解していたかどうかは・・・・?) 知らず知らずのうちに身についた慣習となっていたようです。

 クリスマスもいい、バレンタインもいい。でもね、ちゃんと祝うべき日は、クリスマスより、バレンタインより、正月だと思う。自然の恩恵を受け生きている私たちの忘れていけない感謝の気持ちが、「風習」となってそれぞれの土地に根付き、それぞれの家庭に伝わっているのだと思う。そんな風に育ってきているんだもの・・・・ やっぱり、正月には、お節料理でしょう。お嫁さん!! 初詣に出かけるでしょう? お年玉が…… なんていっているんじゃないの? お雑煮があって、お節があって、みんがいる。写真で見たようなものでなくていい、あなたらしいものでいいと思う。あなた達が父になり母になった時に、あなた達がその家風を作り上げ、子供たちに伝えていくのだから・・・・
 母が作ったものと、私がそれらしく作ったものとは、大きな違いがあります。それでいいじゃない・・・・私はそう思っています。1年の、人生の節目節目を生活のなかで意識し、大事にしていくことが、豊かな心を養っていくのではないかと考えています。そのことを伝えていきたいと………。