2009年12月 2日 (水)

【第111回】日本の英語教育について渡辺 祐徳 (英語)

◆世界に誇れる日本の教育システム◆
 大それたテーマを掲げてみた。
詰め込み主義といわれた時代から「ゆとり教育」へ、そしてそこからの転換…。国の方針が変わるたびに学校の現場がその対応に追われてきた。かつては世界でトップレベルを誇った日本の子どもたちの学力は、各国からの注目を浴び、日本の教育制度を多くの国や海外の教育団体等が参考にしていた。

数多くの議論はあるが、文科省の指導要領の下、各学年において学習すべき内容とレベルが体系的に整備された日本のようなシステムは、欧米諸国においては、ドイツ、ノルウェー、カナダに見られるが、アメリカでは州によって対応が異なっている。教科書会社によってその内容は様々で、どの教科書を使用しているかでその学校のレベルが分かるため、教科書で学校を選ぶ人もいるほどだ。

◆迷える日本の教育◆
 皮肉なのは、世界に誇るべき教育制度と教育のレベルを持ちながら、一方で日本は常に外国の真似をしようとしてきたことだ。やはり外国に対してコンプレックスがあるのだろうか。「ゆとり教育の失敗」と「学力低下」は現場では予期できたことであるが、行きすぎた外国模倣の結果と言えないだろうか。もちろん学力が高かった時代の制度が絶対的だと言うつもりはないが、海外の方式を参考にしつつ、日本独自の改良を重ね、もっと世界の模範となるようなシステムを作り上げるべきではないだろうか。

◆「英語で授業」の必要性◆
 話を本題の英語教育に移そう。
新学習指導要領が文科省から示され、高校英語においては標準語彙が500増え1,800語になるなど、「脱ゆとり教育」が明確に打ち出された。特に目をひいたのは、「英語で授業を行うことを基本とする」という方針だ。つまり、学校の授業を「オール・イングリッシュ」にしようというものだ。

 実施に向けては、多くの問題点が指摘されている。
「授業そのものを英語で行うことによって、生徒の理解は大丈夫か?」
「生徒の負担はますます増えるのではないだろうか?」
「学校での受験指導が遅れ、ますます補習や塾通いが増えるのではないだろうか?」
 そして何よりも、日本語の使用を意図的に避けて、「オール・イングリッシュ」にする必要性はあるかという大きな疑問を拭えない。

◆なぜ英語が使えるようにならないのか◆
 日本の英語教育の欠点として、「中高と6年も英語を勉強しても、まったく英語でコミュニケーションができるようにはならない」と言われてきた。この原因は何であろうか?

 外国語の習得には、1年間で1,000時間から2,000時間が必要であると言われているが、英語を本気でマスターしようとした経験のある人ならば、長期間にわたって継続的に英語に触れなければ難しいことを身をもって体験している。まず学校の授業だけでは、一人あたりにこれだけの時間は確保できないことも当然理解できるはずである。

 それに加えて、もともと日本人は言葉によるコミュニケーションが苦手な国民である。
学校の授業も先生の説明を聞くのが基本で、若い年齢から積極的に発言や発表をさせる欧米のやり方とはまったく違っている。日本語でできないことを英語でやるのは無理なことだ。文科省は、まず英語の授業内容をあれこれ変更する前に、小学生段階からディベートやプレゼンテーションの能力を育てる教育を検討すべきだ。

◆海外の状況◆
 しかし、これは日本だけの問題ではない。
私は個人的に世界の多くの国の人たちと毎日インターネットでやりとりをしているが、英語がほとんど分からない人が多い。フランス、イタリア、スペインなど、ヨーロッパの人たちでも、日常的に英語に触れる環境にない人たちは、ほとんどの人が英語がお世辞にも上手と言えない。

 フィリピンやシンガポールなど、他民族国家であるために国の治安上、英語を公用語としている国の人たちには当然英語が上手な人が多い。しかし私の経験上、そういう国の人でも、英語は聞いて理解はするが、流暢に話したり書いたりできる人の割合がどれだけ高いかは疑問である。はっきり言って、下手な人と会う確率の方が圧倒的に高いのだ。

 私が感じる限りでは、どうやら英語が苦手な国民は、日本人だけではないようだ。言語体系がまったく違い、英語にまったく触れなくとも生活に支障のない日本において、学校の授業だけで高校卒業までに英語のコミュニケーション能力を身につけさせようとするのは、限界があると言わざるをえない。

◆増える生徒の負担◆
 「オール・イングリッシュ」に力を入れることで、生徒の負担がますます増えることが懸念される。センター試験はますます長文化し、80分間で4,000語を読まなければならない。独立したリスニング問題が50点分あり、筆記とリスニングを合わせて、英語だけが250点満点と他教科に比べ、分量が多くなっている。

 加えて、国公立大学の二次試験においては、英作文問題では単純な和文英訳問題が減り、コミュニケーションを重視した内容に変わってきているが、それ以外は今だに和訳と日本語で内容について説明させる問題がほとんどである。もっとも曲がりなりにも大学入試の問題である以上、安易に会話力ばかりを問う問題にする必要はない。

 現に世界中で実施されているTOEFLやTOEICのような試験では、もちろん日本語は一切書かれていないが、読解力や文法力、語彙力を高いレベルで試す内容となっている。また大学では、英語で書かれた海外の文献を日本語のレポートや論文にまとめる作業も、大切な研究の一部だ。だからこそ和訳や説明問題が多いのだ。高校の英語の授業を英語だけで行い、和訳の練習をしないと言うことになれば、当然入試対策は授業以外で行わなければならず、相当な負担増になるに違いない。大学が求めている英語の技能と、高校の授業内容が乖離するような状況はぜひとも避けたいものである。

◆見失われている英語の授業の役割◆
 それにしても、英語の授業に対して、なぜここまでに多くのことが学校で要求されるのだろうか。他教科の先生には申し訳ないが、たとえば音楽を例に取ると、小学校から高校まで音楽の授業を受けても楽譜を読めるようには決してならないし、学校以上のことがしたければ、自ら進んでピアノ教室などに通うのが普通だ。英語のコミュニケーションができるようになりたければ、英会話教室などに行くべきだと思う。

母国語である日本語について言えば、国語の授業も小学校から必修であるが、高校生になっても作文が書けない生徒や、中学校までの漢字の読み書きができない生徒がいるのが現状である。英語の授業に何でも求めすぎて、本当にするべきことが見失われていないだろうか。

 以前にオールイングリッシュで授業を実践されている高校の発表を聴いたことがあるが、文法的な説明は、夏休みに日本語で行うそうである。センター試験の成績も上がり、英検準1級取得者も出ているそうである。逆に国公立大学進学者は決して多くはなかった。長期の海外ホームステイ制度を多くの生徒が利用し、英語教育に相当の時間をかけて成果を上げる一方で、他教科の伸び悩みと、受験対策の遅れなどが原因かも知れない。行きすぎた日本語の排除も関係しているのではないかと考える。

 また授業がすべて英語で行われるということで、拒否反応を示す生徒もいるため、そういう生徒には必ず休み時間に面談をしているそうである。オール・イングリッシュも細心の注意と準備をして導入しなければ、結局は授業について行けない生徒をたくさん作ることになるかも知れない。

◆日本人として英語の授業で目指すべきこと◆
 生徒が外国語として英語を学ぶ意義は、外国人になることではないはずだ。
日本人として、日本と外国の文化や習慣の違いなどを比較して、日本語でも英語でも発表できると言うこと、日本語と英語を通して、外国と日本の橋渡しをすること。これは外国語として英語を学んだ者の特権である。英語を日本語に訳したり、日本語の文章の内容を英語で説明する練習も、この特権を行使するために必要なことだ。本校ではバランスの良い授業を心がけ、授業の役割と目的を見失わず、質の高い授業を提供していきたい。

2009年11月18日 (水)

【第109回】情熱の勝利!!オリンピック開催地Y. M. (地歴・公民)

 2016年のオリンピック開催地はどこに決まったかご存じでしょうか?
残念ながら東京は落選してしまい、ブラジルのリオデジャネイロに決まりました。そのニュースを聞いて、ふと昔のことを思い出してしまいました。

今から15年前、私はブラジルのサンパウロという大都市から500キロぐらい離れた小さな町にいました。日本で出会ったサッカーのブラジル人コーチからもっと多くのことを学びたいと思い、ブラジル行きを決めました。自費で行くとはいえ大学在籍中ということもあり両親は反対というよりも戸惑っていましたが、1年で必ず日本に戻ってくるという約束で両親に許してもらいました。

 本来の目的はサッカー。しかし、それ以外の多くのことをブラジルという国で学ぶことができました。

 何がすごいって、国民が一生懸命なことをもっているということです。私の印象では必ずしも働くことに対しては一生懸命ではないような気がしましたが…。

 1994年にその地に降り立ったのですが、この一年はブラジル国内でいろいろなことがありました。F1レーサーのアイルトン・セナがレース中に事故死をしました。その時はすべてのテレビ番組がアイルトン・セナの葬儀を放送し、町の店も臨時休業、サッカーのプロチームも確か3日ぐらい練習が休みになりました。全国民が悲しんでいました。

 そうかと思えば7月にはアメリカで開催されたサッカーのワールドカップでブラジル代表は優勝して歓喜に包まれました。私がいた小さな町でも夜中までクラクションを鳴らし、荷台に乗っている少年がブラジル国旗を振りまわしながら走っている車を何台も見かけました。

 年が明けると1月には新聞の1面に戦後の焼け野原のような光景の写真が掲載された記事がありました。なんと現在の日本の様子と書かれていたのでびっくりしました。
阪神淡路大震災です。この時、私の仲間たちは自分の家族を心配するかのように気遣ってくれました。

そして2月になるとみなさんもご存じだとは思いますが、カーニバルがあります。特に上記で触れたリオデジャネイロは世界中から観客が集まってきます。カーニバルは大都市で開催されるだけでなく、各都市、町ごとで規模はまちまちですが行われています。この期間は特に国民の休日でもないのですが、当たり前のように仕事を休んで大盛り上がりです。

 ブラジルは発展途上国で日本人が当たり前と思っている生活もできない人たちがたくさんいます。仕事がない人、仕事がないから食べることにも不自由し、そんな状況から生き残るために罪を犯したりと、非常に不安定な生活を強いられている人たちがたくさんいます。

 しかし、うれしい時、悲しい時に心底表現できる姿は日本人として羨ましさを感じました。
 国民性といったらそれまでですが、不安定な生活の中で、日本人の我々であればそちらのほう(苦しい生活)が気になって夢中になれることがあっても、気持ちが向けられないのではないかと思います。
 大変だけれども苦しい状況だけれども夢や希望を持つことで生きるエネルギーを蓄えて、それが支えとなって未来へ突き進んでいくことが大切だと学びました。

 最初に触れた、オリンピックを開催する予定のリオデジャネイロは治安も悪く、それ以外のこともいろいろな問題を抱えている都市ですが、オリンピック開催の熱意がどの都市よりも感じられたという報道が流された時、ブラジル人の熱意に国際オリンピック委員会も心を動かされたのだなと思いました。

 リオデジャネイロでのオリンピック開催に思うことは、生活が苦しい状況の貧しさはあっても、心が貧しくなることのないブラジル国民のパワーの強さです。
 私も含めて時間に追われて生きている日本人が持っていくことが必要な心ではないでしょうか?

2009年11月11日 (水)

【第108回】夢山本 雅弘 (保健体育)

ニュウヨーク2009年MLBワールドチャンピオンにニューヨークヤンキースが輝いて、そのMVP(最高殊勲選手)に松井秀喜選手が選ばれました。松井選手の自著の中で「ヤンキースがワールドチャンピオンになって、自分がMVP選ばれるような選手になりたい」と、述べています。

ある新聞記事に夢を実現した松井選手はすばらしい…と、書いてあった。また、松井選手は7年間、彼の生き様である「耐えて勝つ」をつらぬき彼の夢を獲得した…、とも記事に書いてありました。

誰もが「夢」を持ち、その夢を実現するために努力をして、その夢を実現することが理想の生き方であるが、理想どおりいかないのも人生なのかもしれません。「夢」には実現が比較的やさしいものと、非常に困難なものもあると思います。

私は中学1年の時から体育の先生になるのが夢で、その夢が実現して今日に至っています。これは、やさしいものの中にはいるのかもしれません。松井選手の実現した夢は夢の中の夢のような、ほとんど困難なものです。その、困難な夢を実現したからこそ報道で大きく賞賛されているのでしょう。しかし、どんな夢であろうが差別すべきでないことも確かです。

私は教員になって36年になります。
授業の中で「自分の夢」について問いかけていますが、その答えかたが大きく変わってきているように思います。私の若い頃はほとんどの生徒が「公務員になりたい」「飛行機のパイロットになりたい」「看護婦になりたい」等々、夢に溢れる答えが返ってきました。

しかし、最近の生徒はごくわずかの生徒しか答えてくれません。多くの生徒が「わかりません」「ありません」「まだ考えてないです」等、さみしい答えが返ってきます。「今は夢を持っても実現が難しい世の中だから…」「昔と違うから…」と、言ってしまえば終わることかもしれません。しかし、実現しなくても夢を持ち、夢に向かって努力する姿が大切であることには間違いないはずです。

今年は政治の世界も大きく変わろうとしています。
これを期に、若い世代が夢を持てる世の中に変わってほしいものです。
以前のように、眼が輝いて自分の夢を大きな声で答えられる若者が増えてほしいものです。

2009年11月 4日 (水)

【第107回】受験真っ只中…Y. H. (英語)

 今年は、3年ぶりに3年生の担任です。私のクラスは3-3組。
新校舎になり、全てのものが真新しく、生徒も私も心地好い学校生活をスタートさせました。
ひとつ気になるのは校舎内がガラス張りであること…。

我がクラスは職員室や校長室からも近いということもあって、生徒たちはかなり緊張した日々を送っていたようです。その状況が好転したのか、1学期の生徒たちの授業態度は良好で成績に反映しました。担任としては、「この状況が続いてくれればいいな・・・」と思っていましたが、最近は徐々にガラス張りの環境にも慣れ、少し気が緩んでいるようです。生徒いわく、自分らしさを出せるようになったそうです。 

ただいま、3-3組は受験真っ只中…気が緩んでいた生徒も、真剣さを取り戻し受験の準備にいそしんでいます。中にはすでに合格通知をもらった生徒、試験が終わり合格発表を待っている生徒、出願を終え受験勉強に励んでいる生徒、それぞれの状況でお互いを励まし合い、またアドバイスを与えながらクラス全員が合格を目指し、ひとつになっている様子を見るととても嬉しく思います。

 「今日、合格通知が届いたよ。」とある生徒が言うと、全員から拍手が沸き起こります。
とても和やかで、温かい雰囲気です。みんなが友達の合格を、自分ごとのように一緒に喜んでいます。

 私は3年生の担任がとても気に入っています。生徒はこれまでと違って他力本願から自力でものごとを行うようになり、また甘えがなくなり一人の大人として会話ができるようになるからです。一人ひとりの生徒の3年間の成長が垣間見れる嬉しいひと時です。

 これからまだまだ受験を迎える生徒がいます。私は少しでも彼らの役に立てるようにアドバイスをしていきたいと思います。そして、3-3組のみんなが笑顔で卒業できるように取り組んでいきます。

2009年10月28日 (水)

【第106回】PS僕は元気です福田 圭一 (保健体育)

 今更ですが、インターネットや携帯電話が普及し、何処にいても世界の状況が分かり、簡単に連絡を取れるというツールが増えてきました。便利になった反面、一昔では考えられなかった事件が多発しているのも事実。

保健体育以外にも商業科目でビジネスマナーを担当する者として生徒に、『社会に出て大切な事のひとつに電話の対応』と指導していますが、私自身も対応には気をつけねばと感じる部分が多くあります。

便利なことに携帯に登録してあれば、相手が誰か分かるようになっており友人だと『おう、どうした?』という風に電話に出たり、逆に大学時代の恩師などからの電話には姿勢がよくなり目の前に相手がいないにも関わらず頭を下げたりする自分がいます(笑)

自宅への電話であれば『今日はもう遅いから明日にしよう』とか異性に電話する時は『福田と申しますが、○○さん居られますか?』と緊張し、父親がでようものならその時点で『電話を切りたくなる』事もあった時代…(私はそんなことはしていませんが)『親や家族が電話に出るから挨拶をし、本人に繋がる』今はこの手間が省けた分、『自分の子供はどんな友人と付き合っているのか?』と感じる親御さんも多いのでは…。

デートなどでも前日に待ち合わせの場所、時間をしっかり決めておかないと大変なことになる。その為、時間にも厳しかったように感じます。(一昔前のトレンディードラマではヒロインが近くにいるのに逢えなかったり、雨の中、何時間も待つというシチュエーションがあったのに)
今だったら考えられませんがそんな時代でした。

だからこそ今、丁寧な言葉使いやこころを込めた手紙が喜ばれるのだろうと思います。自分も大学時代を共に過ごした仲間たちとも連絡を取る事も多くは無くなりましたが…。

最後に便利なツールを使って『自分がこの遊学館で生徒と共に元気で活躍している所を知ってもらえるよう』今年こそ女子バレー部員と最後の春高バレー、代々木の出場を達成できるようこのホームページで良い報告ができるよう頑張ります。