2011年9月22日 (木)

【第200回】 <がんばる>S. J. (地歴・公民)

2年ほど前にある本を読んでから
「頑張る」を
「顔晴る」と書いてます。

顔を晴れやかにして努力していると
自分もリラックスしてやれるし
周りの人たちもさわやかな気分にして
協力してもらえるとのこと

言葉って使う漢字1文字で、言い方一つで
変るんだと思い使い始めました。

そういえば、先日、ニュースのインタビューである人が
「東日本大震災の被災者の方たちは
 もうすでに頑張っているんだから
 頑張れというより
 他の言葉で励ましたい。」
と言っていました。
いろんな考え方があるんだなぁと思いながら
「顔晴って」ならいいのではと考えていました。

いつも笑顔でいるのは難しいかもしれません。
私も悩んでいる時には難しい顔をしていることが多いです。
でも普段「顔晴って」いると
悩んでいる時には生徒が
「先生らしくないよ、スマイル!」
「先生、上を向いて歩いて!」
「先生、 顔晴る やよ!」(笑顔で)
と逆に励ましてくれます。
そういう言葉に救われることが多いです。
自分も生徒に「顔晴れ!」と励ましています。

中学生の皆さんも
勉強に部活動に
「顔晴って」ください!

最後にある有名な剣道家がおっしゃっていた
言葉を

人が感心するほどの努力をし
人を感動させ
人に常に感謝の気持ちを持つ
目指せ 「 三感王! 」

2011年9月15日 (木)

【第199回】 大家族物語 ~絆~

皆さんは寮生活というとどのような印象をもたれるでしょうか?

「遊学の精神」のもと遊学館高校にはオレンジハウスという男子学生寮があります。現在野球部23名、サッカー部17名、卓球部16名、駅伝競走部11名、総勢67名が共同生活を送っています。

各運動部によってスケジュールはバラバラですが「自主・自立」を目標に生活を送っています。

そしてもうひとつ生徒達に意識させていることが「家族」であるということです。

見ず知らずの他人が同じ目標を持ち本校で出会えたことが運命。多くの先輩、後輩に出会えたことも運命だと思います。

私が寮監をして今年で4年目になります。まだ年齢が近いので大家族の長男としての働きと教員としての働きに日々奮闘している毎日です・・・

そんななかでも食事や入浴など日々の生活を通して将来の夢や悩み、競技の話など「いろいろ考えているんだな」と関心することも多々あります。

先輩・後輩の隔てなく仲間の誕生日の日にはプレゼントを渡したり、W杯期間中はみんなでサッカー部員の解説を聞きながらサッカーに熱くなり!!なでしこジャパンの優勝に感動し、先日の世界陸上ではボルト選手のフライングでの失格に皆が解説者ばりの賛否両論!!

元気な生徒達です。

寮生活と聞くと「厳しい」、「大変」というイメージがあると思います。そのイメージどおり厳しいですし、大変なことも多いです。しかし、洗濯や食事の配膳、部屋や寮内の環境整備を自ら行うことによって家族や支えてくださる方々への「感謝の心」を育み、まわりを思いやることの大切さを感じてくれていると思います。

2011年9月 8日 (木)

【第198回】 2学期が始まった嶋田 司 (数学)

 夏休みも終わり、9月1日は2学期始業式。今年度は、9月2日、3日に本校学園祭が開催され、いきなりイベント事からのスタートである。

 さて、我1年8組のクラス企画はお化け屋敷・・・経験上、結構、大変な企画である。あまり深入りすると全部任されそうなので、大量に必要となる段ボールだけは集めた。後は、生徒任せ。

 9月1日午後から学園祭準備となり、段ボールで窓を覆い、机と段ボールで通路を作るはずも、全く準備をしていない我クラスは、なかなか始まらない。企画力なし、計画性なし、協力性なし、このクラス。そんなクラスも火が付いたのか、企画する者、買い出しに行く者、ポスターを作成する者が現れ、なんとか形になる。そして、学園祭の2日間、このお化け屋敷にも何故か行列ができるほどの盛況ぶりであった。

 お化け屋敷は、最後の後片付けがまた大変である。だいたい生徒は、後片付けまで考えてお化け屋敷を作ってないから気が重くなる。閉会式が終わり、さぁ後片付け。ダラダラ片付けているのを叱ってくるか、と思い教室に行くと、既に撤去作業が進行中。しかも、全員が、割と手際よく。珍しく、このクラスに感心した。

 4月から新しい環境に馴染もう、新たな友人関係を築こうと高校生活を送ってきた1年生にとって、学園祭クラス企画は初めてクラスが一つになれた行事であったとあらためて感じた。そして、今週から授業が始まり、2学期が始まった。

いつもの学校生活が始まった9月5日のNHK「特集ドキュメンタリー」は、3月11日の大津波で同級生7人を亡くした中学生たちの半年を追った番組でした。遺体安置所に何度も出向き、亡くなった友人全員の顔を確認した女子生徒がいます。エースを亡くし、代わりに投手を務める、ずっとバッテリーを組んでいた男子生徒がいます。中学生たちからは、辛く悲しい経験を胸に刻みながら、生きていこうとする力強さを感じました。与えられた命や生きるということについて、考えさせられました。あらためて、今回の大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

2011年9月 1日 (木)

【第197回】 「Link」S. T. (数学)

8月も後半に入り、夏休みももうすぐ終わりですね。夏季課題は終わったでしょうか。

8月18日~20日の間、特進の勉強合宿があり、そこで「なんで数学の先生になろうと思ったのか」と聞かれました。

高校入学当時、私は決して数学が得意な人間ではありませんでした。
どちらかというと英語や国語の方が得意で文系寄りの成績だった気がします。
そんな人間が何故数学の教師なったんでしょうか。

答えは単純です、数学の担任の先生が人間的に凄くカッコよかったんですね。
この人に教えられる数学ならやってもいいかなと生意気にも思ったわけです。
そして、その先生から数学を教わっているうちに「この先生みたいになりてぇなぁ」と高校生の笹倉少年は思ったわけです。
そして高校での生活が好きだった。
じゃあ高校で数学の教師になればいい。
そんな簡単な理由が「数学の教師」になろうというきっかけでした。
その単純で簡単なきっかけが今の自分に繋がったわけです。


長いようで短い3年間の高校生活の中で自分の進路を決めなくちゃいけないというのは非常に大変だと思いますが、日常の中で自分が興味を感じたこと、やりたいと思ったことを大事にしてください。それらが将来の自分に繋がるかもしれません。
そして私はその何かを見つける手助けができたらいいなと思います。

とにかく、生徒と共に楽しく高校生活を創っていきたいと思っていますので、どんな事でも気軽に話しかけてもらえればと思います。

2011年8月25日 (木)

【第196回】 学ぶといふことK. M. (国語)

暑さも一段落して、夏休みも終盤となりました。
宿題にもめどがついたでしょうか?それとも追われているのでしょうか…?
しかし宿題だけでなく、補習・部活・受験勉強・奉仕活動…など、
長い休み中も暑さに負けず、生徒たちは毎日様々なことに取り組んでいます。

ところで話は変わりますが、「花札」という遊びをしたことはありますか?
日本に古くからあるカードゲームの一つです。
知らない人もいるかもしれませんが、今やインターネットや携帯で無料ゲームにもなっているので、見たことがあるという人も少なからずいるのではないでしょうか?

長い休みだから日本の伝統的な遊びに触れてみては…とご紹介したいわけではなく、
私自身も、遊び方はあまり詳しくありません(すみません)。
しかし、もしその札が見られるのであればちょっと見てみてください。
いかにも日本的な、きれいな絵が描かれていますよね。

花札には、札が全部で48枚あり、それを一年12カ月に分け、月折々の花鳥風月の絵柄が4枚ずつ描き込まれているそうです。
例えば、一月は「松に鶴」、二月は「梅に鶯(うぐいす)」…など。
その中に、「菖蒲(しょうぶ・あやめ)」の絵が入っているものがあります。
それにさらに描かれているものがあるのですが、何か分かるでしょうか?
水の上に板のようなものが渡っていて……それは「橋」です。
正確には、「菖蒲(あやめ)に八つ橋(やつはし)」という名の五月の札です。

「八つ橋」というと京都の有名なお菓子を思い出しますが、それとは全く関係なく、
これは、幅の狭い板を数枚つないでかけた橋のことで、蜘蛛の足のように幾筋にも流れる川の上を八枚の板で渡したという、愛知県の地名に由来します。
そこは「カキツバタ」という花の名所で、実際には「菖蒲」ではないのですが、二つは見た目が似ていて、ぱっと見ただけでは区別が難しいようです。
しかしながら「いずれアヤメかカキツバタ」というように、ともに美しさは同じです。
そこで、花の名が「カキツバタ」に「八つ橋」…何か聞いたことがあるぞと思う人はいるでしょうか?

「古典」を勉強していると必ず目にする平安時代の作品、『伊勢物語』。この作品の一節。
男主人公が、京を追われて東国へ下る途中、ここ「八つ橋」で都に残してきた妻を思って「カキツバタ」の五字を歌に入れて詠むという場面…。
実は五月の札は、この話がもとになっています。この小さな一枚の絵の中には、物語が入っているのです。

『伊勢物語』のこの場面は、多く芸術作品の題材にもなり、江戸時代に活躍した絵師・尾形光琳も、作品に取り入れています(写真でご紹介できないのが残念ですが…)。
しかし芸術とまではいかずとも、「花札」のように我々の身近なところにまで、千年以上も前の日本人の感覚が当たり前のように残り、入り込んでいるのです。
現代を生きる我々にとって実感はあまりありませんが、
平安時代の日本人が「これ、いいね!」と思った感情が、江戸時代、そして現代に至るまで、千年以上も日本人の中にあり続けてきたということではないでしょうか?

私は、国語の中でも「古典」を担当することが多く、毎年必ず生徒から、「なぜ古典を学ぶのか?」と問われます。
受験のため?日本の伝統・文化だから?カリキュラムで決まっているからしかたなく?
人によってさまざまな答えがあると思いますが、一つには、このように日本人の考え方を学び、日本人的な認識・感覚を知る学習であると思います。

世の中は、科学技術が発達し、とても便利で豊かになりました。
しかし、その技術を生み出すのも人間であれば、利用するのも人間です。
その技術のスペシャリストになることは、もちろん大切で必要なことだけれども、
それが役に立つのかどうか、使ってよいものかどうか、是か否か……、
抽象的ですが、そこで起こる問題やさまざまな選択を、解決したり決定したりする最終的なところが、人間の持つ感覚や感情なのです。
それを磨くために、いろいろな考え方や感情を知ることが必要なのだと思います。
それを学ぶのが、「古典」などの、将来役に立つのかどうか、一見しただけではすぐにはわからない科目なのだと、今、激動の2011年を過ごしながら思うのです。

「伊勢物語」が「花札」の絵になっていることを知るのがそうなのか?…と思われるかもしれませんが、そういう直接的なことではなく、学んだことが感覚や感情の教養となって身に付いていく…そういうことなのだと思います。

ちょうど夏の疲れも出るころではないでしょうか。
再び学校が始まる前に、ちょっと一息入れて、なぜ勉強するのかをふと考えるのもいいかもしれません。