メイン

2024年2月22日 (木)

【第823回】「準備が大事」K. N. (数学)

能登半島地震で被災された方々へ心よりお見舞い申し上げます。
一日でも早い復興をお祈りしております。

2月も半ばを過ぎて、今年度の終わりが近づいてきました。
受験生は、ここまできたら「人事を尽くして天命を待つ」心境かと思います。
一方、在校生は、定期考査も一段落ついて、ほっとしたところでしょうか。

さて、三学期は来年度の0学期と言われます。
来る春へ向けて、準備を始めましょう。
今年度を振り返りつつ、来年度へ向けて。

将棋棋士の渡辺明九段があるインタビューに答えて
「大事なのは、事前の準備ですね・・(中略)・・時間制限もありますから、考えきるのに時間が足りないこともある。あらかじめ結論を出しておけば、有利に考えられるわけです」
と言っています。
何が起こるのかを想定して、徹底的に準備をする、そうすると、ことを有利に運ぶことができるのです。もちろん、
「考えておくのですが、ダメになる」
こともあるそうです。それでも、少しでも有利に戦えるよう準備をするのです。

授業の準備をしていて、ときどき思います。
「これらの作業のうち、どれだけを使うだろう」
経験を積んで、ずる賢くなったので、使う分しか準備しないことも増えましたが、それでも、準備したものをすべて使うことはめったにありません。準備したいくつかは「ダメになる」のです。

ただ、準備したいくつかは「ダメになる」かもしれませんが、無駄にはなりません。いつかどこかで役に立つときがきます。

この数年、風邪一つひかずに過ごせたのに、ちょっとした油断か、今年はコロナもインフルもかかってしまいました。症状は大したことはなかったのですが、外出できなかったり、家族にうつさないよう部屋を分けたり、食事を別にしたりと、とても大変でした。
みなさんも、体調にはくれぐれもご注意ください。

2022年9月22日 (木)

【第748回】「テスト効果」K. N. (数学)

テストなんてしなければいいのに、と誰もが思う。
テストを受けて、あれができない、これがだめ、あいつより点数が低い、と言われるのはいやだ。点数のよい「あいつ」がなんか上から目線でものを言ってくるのも腹がたつ。

白紙の答案を提出すると、「何か書け。そうしたら合っているかもしれない」と言われたりする。そんなこと言われても、書いて正解になったためしはない。

テストはないほうがいい・・・といいたいのだが。

「テスト効果」という言葉がある。「テストをすることによって記憶の定着が進む効果」のことである。単に、テストをすればいい、というのではなく、テストを行うことにより、「思い出す」とか「考える」という作業が重要なことであるようだ。

教師の側からすれば、テストをする理由は、
生徒の理解度を測るため、授業のレベルが生徒とあっているか調べるため、成績をつけるため、といろいろである。
でも、最大の理由は、「記憶の定着のため」である。

実際、2006年にアメリカで行われたある調査によると、
ある科学的な文章を読んだ学生のうち、単純にテキストを再読したグループよりも、テキストを一度読んだ後にテストを行ったグループの方が、二日後・一週間後に覚えている量が多かったそうだ。教科書や資料を何度も読み返すよりも、「テストして思い出す」といった作業をするほうが記憶はより長く定着するらしい。

習ったことを、日常生活や仕事で使うために、ちゃんと覚えなければならない。だから、記憶の定着のため、テストをする。

これがテストをする本当の目的である。

そんなわけで、今日も小テストを実施する。
明日もたぶん、する。
そして、採点に追われるのである。

2021年3月18日 (木)

【第672回】 「コロナ禍と「数理モデル」」K. N. (数学)

コロナに始まり、コロナに終わった一年であった。

思えば4月。いきなりの休校で始まった。5月の連休明けに始まるはずが、非常事態宣言の延長により休校は続いた。本格的なスタートは6月だった。何もかもが手探りの状態だった。

おそらく史上最短の夏休みを経て、たぶん史上最長の2学期を過ごした。
いくつかの学校行事は取りやめになり、あるいは簡素化して行われた。修学旅行は中止となり、卒業式も簡素なものに置き換えられた。
数年に一度の大雪にも見舞われた。大雪による休校も経験した。
不作為の休校にこんなにも見舞われた年は経験がない。

それでも、授業内容は例年と同じ内容をなんとか消化した。教員によっても生徒にとっても大変な1年であった。願わくば、これが今年だけのことでありますように。

数学の教員として興味深く感じたことは、「数理モデル」という言葉が人口に膾炙したことである。

「実効再生産数」という難しい言葉がある。
詳しい説明は別に譲るとして、この数値が1より大きいと感染爆発が起こり、1より小さいと感染が収束する。大雑把にはそういう理解でよいと思う。これは、高校の数学で習う「等比数列」のとても興味深い例になっている。

「偽陽性・偽陰性」という言葉も見かけた。
細かい言葉の定義はさておき、単純に言えば、検査が「間違える」ことである。検査は「間違う」ことがある。確率は小さいが、0ではない。しかし、その「間違い」まで込めて、「感染している確率」を計算する方法がある。その方法を、高校数学の「確率」で学習する。

いずれも、高校で習う数学で理解できる「数理モデル」の例である。機会があれば、その解説ができないかと心密かに考えているところである。

百年前には、「数理モデル」という武器はなかった。このコロナ禍の経験は、いずれ人類の大きな糧となるであろう。5年とか10年のような短い話ではなく、それこそ歴史的規模での糧である。
そして、この経験を「数理モデル」という人類の叡智とともに、後世に伝えようではないか。

2019年11月 7日 (木)

【第602回】「体で覚える数学」K. N. (数学)

 「体で覚える」という言葉がある。「体験して身につける」という感じの意味である。

 数学という学問は「体で覚える」のが難しいと思う。どちらかといえば、頭の中の学問で、実験したり、体を動かしたりして学ぶものではないからだ。でも、数学にも「体で覚える」部分がある。

 授業中、どうしてそんな話になったのかは忘れたが、
「紙を半分、半分と折っていくとき、7回折ることはできないよ」
と言ったことがある。言われた生徒は半信半疑で「7回なら簡単に折れるよ」と言っていたが、実際にやろうとはしなかった。

 実は、小学生のころ、友達と紙を7回折ろうと実際にやってみたことがある。
 長いほうが折りやすいだろうと、紙を切ってつなげ、1メートルくらいの長さにし、半分に折っていった。そして、5回か6回あたりで、もう折れなくなった。思ったよりすぐに、短く厚くなり、折り曲げるのに力も必要とした。
 この事実を、計算で確かめることもできる。
 7回折ると、もとの紙の厚さの100倍を超える厚さになる。仮にもとの紙が0.1ミリであったとしても、1cmを超える厚さになる。これを「折る」のはたぶん無理だ。

 これは、私の「体で覚えた」数理現象の一つだろう。実際にやってみた結果なので、かなり自信をもって主張できるし、数学の計算で確かめて「なるほど」とも思える。何より、二度と忘れない。

 そういえば、高校生のとき、数学の授業で、大量の数式をグラフ用紙に書け、というプリントが課題に出たことがある。
 一時間をつぶして書き上げたとき、グラフ用紙に「ドラえもん」が現れていた。
 私が抱いている「計算したら、何か『いいこと』がある」という素朴な思い込みは、たぶん、そのときに刷り込まれた。

 数学ができるようになるのは難しいことだが、数学を好きになるのは、こんなふうに数学を「体で覚えた」ときなんじゃないだろうか。
 授業でそれを実現できるといいのだが、時間やカリキュラム、手間の問題で、なかなかできないでいる。いつか、そんな「体で覚える」授業ができたらいいなと思う。

2018年6月21日 (木)

【第534回】 数学って役に立つの?K. N. (数学)

この間、テレビを見ていたら、
「科学や文明の発展に貢献した人に贈られる「京都賞」に、京都大学数理解析研究所の柏原正樹さんら3人が選ばれた」
というニュースを聞いた。柏原先生について、私はまったく存じ上げないのだが、
「数学のひとつの分野である代数解析学の要となる理論を確立したことが評価された」
という。その、代数解析とかD加群とかいう言葉に微かに記憶があった。調べてみたら、1988年に出版された本(堀田良之:加群十話、朝倉書店)の編集者短評に、
「さて、最後のほうが、最近に佐藤スクールを中心に発展しているD加群の話題になっていくのは、これはまさに現代的といえる。彼らはそれを「代数解析」と呼ぶのだが・・・」
とある。
そう。30年前は「最近・・・発展している」「現代的」な話題だったのだ。この分野がどう発展したのか、不勉強で知らないのだが、数学という学問が、30年経って、やっと評価される学問であることを実感した。

数学の授業をしていると「それ、役に立つの?」と生徒に聞かれる。「一生、使わんし」とも言われる。いや、役に立つから、科目にあるのだし、使う(かもしれない)から、勉強するのだ。

例えば、2000年以上前に確立された「三平方の定理」は、スマートフォンなどのナビ機能の実現に用いられている。中学校で習う「素因数分解」も、現代のセキュリティを守る要の理論だ。素因数分解に時間がかかること、がセキュリティの要になっている。
何年か前、テレビゲームを作りたくて、そういう専門学校に進学した生徒がいた。入学を決めたあと、彼は「ベクトルと三角関数は勉強しておけと(専門学校の先生に)言われた」と言っていた。
数学を使う場面は、結構あるのだ。
ただ、「役に立つから勉強する」のは、数学に関しては、ちょっと違うような気がしている。
一度確立されると、2000年以上も使われることがあったり、ちゃんと評価が確立されるまで、30年もかかったりするものを、「役に立つ」かどうかで測っていいのだろうか。

最後に、どこで読んだのか忘れてしまったが、深く共感した言葉があるので、ここにあげておく:
(数学が)役に立つか、と聞かれると自信はないが、
必要か、と聞かれると、自信をもって「はい」といえる

2017年1月19日 (木)

【第461回】 基礎は応用の応用K. N. (数学)

この文章は、センター試験の直後に出ることが予定されている。でも、これを書いているのは、センター試験の前なので、結果がどのように出るのか、まったくわからない。
難しい問題であれば、点数が取れず、大変だし、易しい問題であれば、平均点が上がり、それはそれで大変である。
今はただ、受験生の健闘を祈ろうと思う。

ところで、センター試験は、(少なくとも数学に関していえば)基礎的な問題がほとんどである。
基礎がちゃんとできていれば、その問題は解ける。
時間の制約があるので、100点が取れるかと言えば、それは無理かもしれないが、教科書と問題集による練習を積み上げれば、必ず解ける。

だから、いうのだ:「基礎は大事」

でも、それがなかなかできない。
「基礎」はつまらないからだ。
なぜつまらないのかといえば、それは目的がわからないからだ。
だから、目的がわかれば、つまらなくても、やるかもしれない。

以前、ある本を読んでいたら
「基礎は応用の応用」
という言葉に出会った。言い得て妙である。

応用問題が解けないなら、それは基礎ができていないからだ。
できていないなら、基礎練習をしなければならない。
だから、「基礎は応用の応用」なのだ。

とはいえ、理由がわかっても、基礎練習はつらい。
やらないといけないとわかっても、なかなか一人ではできない。
きっと、学校で先生に強制的にやらされないと、やれないものなんだろう。

そんなわけで、僕は今日も「基礎練習プリント」を作るのである。

センター試験の結果はどうだっただろう。うまくいっていることを祈っています。

2015年9月10日 (木)

【第393回】 努力はなんのためにするのかK. N. (数学)

今年の夏の甲子園で、遊学館の生徒たちがプレイをしているのを見た。
彼らが楽しそうに野球をしているのを見て、うれしく思うのと同時に、ここまでくることの道のりを思って気の遠くなる思いをした。

どれだけ苦しい思いをしたのだろう。
どれだけ辛い練習を耐えたのだろう。
本当に頭が下がる。

二回戦を勝って、三回戦で負けたけど、毎年、千人しか生まれない甲子園球児となり、一つ勝つことで、500人の中のひとりになったのである。
高校生が(男子に限れば)167万人いることを考えると、これはすごいことなのだ。
野球部に限っても、(参加)4000の高校に30人程度の野球部員がいると仮定して、
12万人のうちの千人である。いや、12万人のうちの500人になったのだ。
本当に素晴らしい。

この夏休み、三年生のある女子生徒に付き合って、数学の勉強をした。入試で必要だから、勉強をみてほしいと言われたのだ。
一年生のときの教科担当だったので、彼女の実力については、おおよその把握はできていた。正直、(数学の)できる子ではなかった。クラスの中で、後ろから数えたほうが早いような順位の子だった。「大丈夫かな」と思ったが、彼女の「こうなりたい」という強い思いに応えたいと思った。
それが、どうしたことか、驚異的に学力が伸びている。
計算の正確さが上がり、問題を解くスピードもついてきている。
「この問題を解くには、どうすればいい?」と聞くと、(たとえば)「因数分解する」と的確に答えてくる。
計算はたまに間違える。でも、問題の解き方がわかっていて、それをきちんと言葉にできる。とても素晴らしい。

本当にやる気になったときの生徒の力というのは素晴らしい。この調子で続けてほしいと、切に願う。

そういえば、昔読んだ漫画で、主人公がこんなふうに呟くシーンがあった:
「やっぱり、そこそこなのかな」
どういうことだと、主人公に詰め寄る登場人物の一人に、主人公は答える。
「できる子は自分が下手なことをしたらそれが許せなくて頑張る。できない子は、うまくきっかけを掴むと、急に力を伸ばすことがある。でも、そこそこの子は・・・努力すらそこそこなのか・・・」

遊学館の野球部の子は(どちらかと言えば)「できる子」で、自分が下手なことをしたら、自分が許せなくて頑張る子なんじゃないかと思う。

上の女子生徒は「できない子」だったけれども、うまくきっかけを掴めたおかげで、急に力を伸ばせた子だ。

どっちも素晴らしい。では、「そこそこの子」は?

努力が必要なのは、ここだ。

先の漫画の主人公は「そこそこの子」に向けていう:
「努力の先にあるもう一つ上の世界、それを君らに見せたいんだ」

何のために努力するのか。そう。
「努力の先にあるもう一つ上の世界をみるために」

確かに、どんなに努力しても報われないことはある。挫折することもある。
でも、長島茂雄氏によれば
「挫折してもプライドは失われない。努力しているからだ」
さあ、二学期が始まった。季節もいい。たくさん努力しよう。

2014年3月20日 (木)

【第323回】 年度末ですK. N. (数学)

年度末になり、来年度へ向けて身のまわりの整理をした。
いらなくなったプリントを整理しながら、ちょっと物思いにふける。
気忙しい一年だったような気もするが、過ぎてしまえばそれもいい思い出だ。
整理してみると、今年度は2年生の授業用プリントが多い。手のかかる生徒が何人かいたせいだろうか。

2年生といえば、うれしいことがあった。

3学期に期末試験のテストを返したときのことだ。
2年生の生徒Tが、思ったよりよい点数を取れたらしく、喜んでいる。
ところが、まわりから「勉強してたよね」と言われると、
「あれは勉強したって言わんよ。だって答えを写していただけだし。ちゃんと勉強している人に失礼だから」
というようなことを言った。Tがそんな発言をしたことに、僕は驚き感動した。

Tは1年のときも担当していた生徒で、手のかかる子だった。
数学ができる方ではない。僕の授業で赤点をとったこともある。
1年のころは、ほとんどノートを開かず、教科書すら持ってないこともあった。
でも、2年になって、少し勉強するようになった。
プリントを渡すと、わかるところを埋めるようになった。
「先生、ここ教えて」ときいてくるようになった。
そして、3学期は本当に頑張って勉強していた。
本人の認識では「答えを写しただけ」なのかもしれないけど、答えを写すことだって勉強のうちだ。そして、本当に「答えを写した」だけでは試験で点数を取るのは難しい。
Tは、本人の認識はともかく、まわりがいうように「ちゃんと勉強した」のだ。
Tなりに勉強したからこそ「ちゃんとしている人に失礼だ」という発言も生まれたのだろう。

Tの心の中で何があったのかはわからない。でも、Tの成長をとてもうれしく思う。
来年度、3年生の数学の授業はないので、Tと授業で会うことはもうないのだけど、 きっと、ちゃんと勉強してくれるにちがいない。

 

数学者の岡潔先生が、その著書の中で
「人は極端に何かをやれば必ず好きになるという性質を持っています。好きにならないのはむしろ不思議です。」
とおっしゃっている。
「極端にやる」というのは、たぶん「一生懸命する」とか「夢中でやる」といった意味なのだろうと思う。

新しい季節を迎えるにあたって、好きなことを一生懸命してほしい。夢中になってやってほしい。もし、好きなことがないのなら、夢中になれることを見つけてほしい。

一生懸命すれば、夢中になってすれば、結果には結びかなくても、成長できる。
そして、Tのように、成長したら、またここで会おう。会えることを楽しみにしている。

2012年12月20日 (木)

【第260回】 頑張れ受験生K. N. (数学)

気がついたら師走だ。もう今年も終わってしまう。

でも、年明け早々に、受験を控えている三年生がいる。
もう合格が決まった生徒は、受験生を応援しよう。
頑張れというだけが応援じゃない。勉強する環境を作ってあげることも応援だ。
春にはみんなで笑って卒業できるよう、最後の追い込みに力を注ごう。

とはいうものの、師走だ。今年1年振り返っておこうと思う。
印象に残っているのは、5月の日蝕、オリンピック、最後に選挙だろうか。

まずは、日蝕。

印象的だったのは、木漏れ日が三日月の形だったことだ。
昼間なのに薄暗く感じたのも不思議な体験だった。

次は、選挙。

これを書いているのは衆議院議員選挙の真っ最中で、いろいろ考えさせられることもあったのだけど、それとは別にふと思い出したことがある。

日本の「比例代表」の選挙で採用されている「ドント方式」はベルギーの数学者ドント氏が考えたものだ。数学の理論から来ているのだ。

「ドント方式」にはいろいろ批判もあるし、変えた方がいい部分もあるようだけど、今のところ、そんなに「不自然」な結果を生んではいないようだ。変えることを否定する気はないが、ルールを変えるときは、慎重な議論が必要だと思う。

また、選挙と数学に関して「アローの定理」と呼ばれる不思議な定理がある。
専門的になりすぎるので詳細は書けないけれども、一口に表現すれば
「適切な条件を仮定すると、個人の好みから集団の好みを決定する方法はない」
という定理だ。
雑に言って、選挙の結果が民意を反映しているとは言えないことがある、ということだ。

今回の選挙結果はどうだろう。

最後にオリンピック。

オリンピックで新記録が出る確率、もう少し正確には、
「タイ記録を含む最高記録が出る回数の期待値」は
1+1/2+1/3+1/4+1/5+・・・
で計算できる。
この和は「調和級数」と呼ばれ、無限大に発散することが知られている。つまり、オリンピックでの最高記録は永遠に出続けるのだ。
人類の運動能力が向上しないと仮定しても。

ちょっと不思議だ。

ところで、来年は 2013 年。現れる数字が全部異なる。1987年以来、25年振りのことだ。なんだか、すごいことのような気がする。でも本当に「すごいこと」なのかどうかは確率を計算してみないとわからない。
この場合の確率はどうやって計算すればよいだろう?
僕は答えを知らない。

さてさて、来年はどんな年になるだろう。

2011年8月18日 (木)

【第195回】 「得意」と「苦手」K. N. (数学)

夏休みです。受験生にとって勝負が決まる時でもある。勉強しましょう。

この間、その受験生と話をしていて、ふと、数学の確率にまつわる話を思い出した。

例えば、
「英語は得意だけど、数学は苦手」
という生徒がいて、彼(または彼女)は
「僕は(私は)文系だから」
と言ったりするのだけど、話をしていると、言うほど「文系」ではなかったりする。
もうちょっと勉強すれば、数学ができるようになりそうに思える。

では、その「得意」と「苦手」の違いは、どこから生じるのだろうか。
一応(?)、数学の教師なので、確率論を使って考えてみた。

袋に白と黒のボールを入れて、(袋の中を見ずに)ボールを一つ取り出し、色を確認したら元に戻す、という(どこかで見たような)「ゲーム」を考える。

最初、袋の中には白のボールと黒のボールを1つずつ入れておく。

袋からボールを取り出したとき、白のボールと黒のボールの出る確率はともに 1/2 だ。
そのまま元に戻してしまえば、何も変わらず、白黒の確率は 1/2 のままだ。

そこで、袋からボールを取り出したとき、
その色が白だったら、白のボールを1個増やして袋に戻す。
黒だったら、黒のボールを1個増やして袋に戻す、
ことにしよう。

この操作を何回もくり返すと、袋の中の白黒のボールの出る確率はどうなるだろう。

確率論の難しい計算をすると、白黒の出る確率は、一定値に近づくことが知られている。
ちょっとややこしいけれども、その「一定値」は、試行の度に違う値になる。白黒の確率が1/2に近付くこともあれば、白の確率が1/3に近付くこともある、ということだ。

平たく言えば・・・

本屋に行くか、飲み屋に行くかを最初のうちランダムに決めていても、そのうち、どっちに行くか偏ってきて、気が付いたら「飲み屋ばっかり」になってしまう人、逆に「本屋ばっかり」になる人、のように、人によって現れる結果は違うけれども、人を決めると、その人が本屋に行く確率は一定値に近付く、

ということだ。

先の「得意」と「苦手」が生じる理由を、この確率現象に当てはめると、先の受験生は
たまたま何らかの理由で「英語を得意」だと思い始めた結果、英語の勉強をする機会が増えて、英語が得意になっただけ
なんじゃないだろうか。

上の「ゲーム」で言えば、たまたま、最初に「白(英語)」がたくさん出た結果、「白(英語)」の出る確率(「得意」だと思う場面)が増えて、白の確率が大きくなっているだけ、なのではないだろうか。

「そうだ」と言い張る気はない。
そうではなくて、そういう単純な理由であるなら、意識的に「黒(数学)」の出る確率を増やしてやれば、数学もできるようになるんじゃないだろうか。

教師としてできることは、そんなに多くないかもしれない。でも、

確かに、袋の中には白のボールが、かなり多くなっているけれども、
意識的に黒のボールが増えるようにしてやれば、黒の確率を増やせるのではないか

そう思って、生徒が数学と接する機会を増やすために、数学のプリントを「たくさん」作ろうと思う。