大阪大学総長などを歴任した、鷲田清一先生は、僕の尊敬する哲学者です。
鷲田先生の言を借りれば、「理解」という語には、「意味、内容をのみこむこと」という意味のほかに「相手の気持ちや立場に立って思いやること」という意味があると述べておられます。
つまり、人を「理解」するというのは、感情や意見の一致を見るということではなく、あの人はこんなふうに感じているのかと、人と自分との違いを思い知るということです。
だから、人の理解においては、その人と同じ想いになることではなくて、自分には理解できなくても、その人の想いを、否定するのではなく理解しようと想うこと、わかろうとする姿勢が大事だということです。
相手には、その姿勢こそが伝わり、言葉を受け取ってくれたという感触のほうが、主張を受け入れてくれることよりも意味が大きいと、先生はおっしゃっています。
ストレスフルな現代社会において、子供たちは、多くの悩みを抱えています。
われわれ教師は、授業を通して、学問を教授するだけではなく、子供たちの悩みに対して、「理解」を示し、対応しなければなりません。
子供たちの悩みに答えを与えることは、至難の業です。
ただ、その悩みに寄り添って、一緒になって考える。苦しみ、悲しみを分かち合うことしかできません。
でも、その姿勢がとても大切なんだと思います。
先日、授業で「論語」を教えました。
「論語」は約2500年前の中国で、主に孔子の言葉を集めた本で、日本でも長く親しまれてきました。
漢文の嫌いな生徒が少なからずいますが、私は、訓読読解の授業の後に、時を超えて今でも残っている、孔子の理念を生徒に伝えています。
例えば、孔子の大切にしている言葉に「恕」があります。
子貢問いて曰く「一言にして以て終身これを行うべきものありや」
子曰く「それ恕か。己の欲せざる所は人に施すなかれ」
孔子の弟子である子貢は先生(孔子)に聞きました「生涯守るべき事とは一言で言うと何なのでしょうか?」
孔子は答えました「それは恕だ。自分が好まないものは他人にも押しつけてはならない」
これを受けて、福沢諭吉も著書『福翁百話』で「己れの欲せざる所を人に施す勿れとは之を恕の道と云ふ」と書き残しています。
「恕」とは、思いやること、思いやり、同情、寛大さ、優しさ。
そして、私は、「恕」とは、「理解すること」「寄り添うこと」だと信じています。
人間にとって最も大切なこと。
それは「人を理解するということ」ではないでしょうか。私は、そう思います。
人生を通して、学び、体験し、仕事をし、生活をし、強くたくましくなって、そうして「人を理解するということ」を実践できるといいですね。