2014年5月15日 (木)

【第327回】 一人一人が創りあげている学校S. K. (数学)

こちらに、新任として務めさせていただいて、一か月ほどになりますが、一言でいえば、すばらしい学校であると言えます。この学校のことについては、野球、駅伝、卓球、バトン部等のことはよく聞いていましたが、日頃の学校自体はどのような学校であるかは、全くわかりませんでした。
はじめて校舎内に入った時、大きい学校だと思いました。生徒数も多い、さすがの規模だなあと。しかしそれは、隣の学校の校舎も、この学校の延長だと思い、その境界線に気がつかなかったのでした。それでも、その校舎を最大限に活用し、生徒と教師が目標を定めて、すべてに全力で突き進んでいる様子が、学校全体に満ちています。
まずあいさつの声が、すばらしい。毎朝、この門をくぐった時から、いや学校に近づいた時から、私は以前のように、自分だけの世界にはまりこんで、遥かかなたの空間を見つめて歩む人生は、遠慮しなくてはならなくなりました。学校の一人一人と、元気なあいさつを交わす、その一人になってしまいました。
私の担当は数学ですが、いつも中心ができている授業は大変いいと思います。授業の中心がいつもそこになければいけないし、それを創り上げていくその責任をひしひしと感じています。
数学は知識を伝える部分もありますが、やはり共に考えて、見えない先を見えるようにすることです。
数学が分からない人は、その人は、大切な人です。私はその人のために来ているのです。みんな分かる人ばかりだと、私は必要ありません。しかし、見えない先を進んでいくことは、洞窟の探検なら、皆わくわくドキドキで、大喜びですが、数学の世界で、同じようにわくわくドキドキで進んでいくとは、難しいかもしれません。しかし、今までの自分の力では、ほとんど見えなかった数学が、何やら見えるような気がしてきたら、共に大喜びしたいものです。洞窟探検と同じように、感激したいものです。その喜びが、周りを嬉しくさせることで、一人一人が世界を創り上げていくのです。
数学で悩み、苦労することも大切です。悩むことによって、ひとは大きく成長していきます。ある意味では、数学はそのためにあるかもしれません。今は、何でも乗り越えるエネルギーがあるはずです。この力を思い切り燃焼させてほしいものです。
まず、はじめの一歩が大切です。

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2014年5月 8日 (木)

【第326回】 TalentS. T. (数学)

今年、遊学館高校で働き始めて、4年目になりました。
私は部活動をもっていないため、主に受験指導で放課後、生徒の目標と関わっています。
この遊学館には才能ある生徒が数多くいます。
センスがいいな、そこまでできるのか、と感嘆することが多々あります。
しかし、それらの人間が望む目標を達成したのかというと、私は何とも言えません。
では、目標を達成するために一番必要な才能とは一体何なのでしょうか。
私は「努力する才能」だと思います。
自分の可能性を信じて、努力し続ける人間が最終的に自分の望む結末を得ています。
この文を読んで、少しでも努力しようと思った人がいるのなら、アーヴィン・“マジック”ジョンソンの言葉を贈ります。

『君には無理だよ』という人の言うことを、聞いてはいけない
もし、自分でなにかを成し遂げたかったら
出来なかった時に他人のせいにしないで
自分のせいにしなさい
多くの人が、僕にも君にも「無理だよ」と言った
彼らは、君に成功してほしくないんだ
なぜなら、彼らは成功出来なかったから
途中で諦めてしまったから
だから、君にもその夢を諦めてほしいんだ
不幸なひとは、不幸な人を友達にしたいんだ
決して諦めては駄目だ
自分のまわりをエネルギーであふれ
しっかりした考え方を、持っている人でかためなさい
自分のまわりを野心であふれ
プラス思考の人でかためなさい
近くに誰か憧れる人がいたら
その人に、アドバイスを求めなさい
その人に、アドバイスを求めなさい
君の人生を、考えることが出来るのは君だけだ
君の夢がなんであれ、それに向かっていくんだ
何故なら、君は幸せになる為に生まれてきたんだ
何故なら、君は幸せになる為に生まれてきたんだ・・・

今年、私は2年生の担任になりました。
センスのある奴が沢山います。
自分のセンスを活かすか、殺すか、自分次第です。
活かしたいと思う人の手伝いをするのが私の仕事です。
私はまだまだ、君たちの成長する可能性を信じています。

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2014年4月24日 (木)

【第325回】 「型破り」と「形無し」K. M. (国語)

 今年もたくさんの新入生が入学しました。フレッシュな表情の彼らを見ていると、すっかりくたくたになったこちらまで新たな気持ちになれるのですから、本当にこの時期は不思議でなりません。しかしながら時は過ぎ行くもの。はや四月も半ばを過ぎ、桜の花も散りつつあります。そして世の中では今も多くの情報が目の前を流れて行きます。今回もその中でふと耳にした話をしようと思います。

 少し前、ドライブ中に聞いていたラジオ放送で、様々なスペシャリストからお話を聞くというような番組をしていました。そのときはとある歌舞伎役者がゲストで出演されていました。歌舞伎といえば親から子へと芸が受け継がれる伝統の世界。何度も同じ演目を繰り返す歌舞伎では、遺伝子によって必然的に見た目や声質が似ている人の間で芸を受け継ぎ演じることは理にかなっていることなのですが、彼は何の縁もない一般の家庭からこの世界へ飛び込み、今や人気女形の一人として活躍している人でした。
 その時に話されていたのが、タイトルの「型破り(かたやぶり)」と「形無し(かたなし)」という言葉の違いです。歌舞伎の「型」とは、演目を演じる上での標準となる定められた演技・演出のようなものです。
 彼が歌舞伎を習う上で師匠に教えられたことの一つが、その「型」を覚えるということでした。先にも述べましたが、歌舞伎の特徴の一つに同じ演目を何度も演じるというのがあります。逆の立場でいえば、観客はいつ何度見ても同じものを楽しめるということです。演じる側はその演目の「型」を知らねば舞台に立てませんし、「型通り」に演じることがまずは必要です。それだけ聞くと歌舞伎は同じことの繰り返しでつまらないと思うかもしれませんが、「型」というのは先人が追及してきたものなので見る側にとっては何度も同じ感動を得ることができるそうです。その「型」をまずは覚え「型通り」に演じることが、彼に限らず歌舞伎には大事なことなのです。しかしながら、そのことが長い間日本人が歌舞伎に魅力を感じてきた全てだったのかというとそうでもなく、やはり新しいものを求める気持ちというものがあります。すると、「だったら最初から自由に演じればよいではないか。『型』を学ぶことに意味があるのか。」と言われそうですが、客に感動を与えるためにも追求されてきた「型」なのですから、「型」にはまることなく自己流で無茶苦茶にやるほうが感動を与えられない無意味なことなのです。実はこれが「形無し」です。反対に「型」にはまってしっかり基本を学び力をつけ、そしてあえて少しはずし効果的に乗り越える。これが「型破り」です。見慣れている観客はそこに新鮮さを感じて引きつけられるのです。基本が出来ていて「型」があるからこその「型破り」なのであって、土台もないのに新しいことをするのはただの「形無し」になるだけだそうです。

 「型破り」と「形無し」。言葉というのは、少しの違いで全く正反対の意味になります。だから正しい意味で言葉を知るということは大切なのだと立場的には言いたいのですが、それ以前に気付いてほしいのが先に述べた内容は歌舞伎の世界に限ったことではないということ。どの世界においても参考になる話だと思いました。
 そこで遊学館高校に通う皆さん。皆さんにはぜひ「型破り」な人間になってほしいと願います。そのためにはまず、どっぷり『遊学館高校』という「型」にはまることをお勧めします。「形無し」にならないためにも。そして卒業を迎える頃には「型破り」な人間となって世界へ羽ばたいていきましょう。そのとき皆さんはどんな人間になっているのでしょうか。それが私たちの楽しみの一つでもあります。

2014年4月17日 (木)

【第324回】 ユウガク桜牛腸 尋史 (英語)

 先日、ハードディスクにため込んでしまったテレビ番組の整理をした。昔のビデオテープの見た目で分量を実感できないため、何となく気になって録画した番組や毎週録画の設定がしてある番組があっという間にたまってしまったのである。もう旬が過ぎた番組は見ずに削除したり、大まかに内容がわかればいいものは早送りしながら見たりして、半日作業で整理した。その中で、ある番組が目に留まった。それは「ドラゴン桜」という番組だ。私が録画したものではないが、以前から気になっていた番組だった。関心を持ったきっかけは、リクルートが運営する「受験サプリ」というサイトの中にあった「ドラゴン桜直伝!大学合格の秘訣百箇条」というコーナーである。受験勉強のコツのようなものをまとめたものだが、マンガと一緒に簡潔な言葉でアドバイスしているおり、とても分かりやすいので本校の受験生にも見せたいと思い、パソコンに保存してあるのだ。そのドラマの中で、阿部寛が演じる主人公桜木建二が落ちこぼれ生徒たちに向かってぶつけるセリフのひとつに「格差や不公平が当たり前の世の中で、受験は社会を這い上がるために唯一平等に与えられた機会だ」というようなセリフがあった。私は、そのセリフを聞きながら今春に遊学館を巣立った生徒たちの顔を思い出していた。
 本校に入学する生徒の多くは、公立高校の受験に失敗して入学してくる「不本意入学者」が多くいることは事実である。特に、特進クラスに在籍する生徒たちは、そういう生徒が多い。彼らは、夜遅くまで学校に残り、休日も学校に来て勉強している。そして、その中の一人が今春、見事に合格を勝ち取って学校へ報告に来てくれた時に「僕は公立に落ちて良かった。もし、公立に受かっていたら国公立に行こうなんて考えなかっただろうし、こんなに勉強することもなかったと思う。本当に遊学館に来てよかった。」と言ってくれた。その言葉は、私たち教員にとって何よりのご褒美であり、それまでの苦労が報われた瞬間だった。彼は平等に与えられた機会を存分に活かして次のステージに進んでいったのだ。彼のように未来に向けて期待に胸を膨らませながら巣立つ生徒を一人でも多く見送ることができるように、今年頑張るゾ!

2014年3月20日 (木)

【第323回】 年度末ですK. N. (数学)

年度末になり、来年度へ向けて身のまわりの整理をした。
いらなくなったプリントを整理しながら、ちょっと物思いにふける。
気忙しい一年だったような気もするが、過ぎてしまえばそれもいい思い出だ。
整理してみると、今年度は2年生の授業用プリントが多い。手のかかる生徒が何人かいたせいだろうか。

2年生といえば、うれしいことがあった。

3学期に期末試験のテストを返したときのことだ。
2年生の生徒Tが、思ったよりよい点数を取れたらしく、喜んでいる。
ところが、まわりから「勉強してたよね」と言われると、
「あれは勉強したって言わんよ。だって答えを写していただけだし。ちゃんと勉強している人に失礼だから」
というようなことを言った。Tがそんな発言をしたことに、僕は驚き感動した。

Tは1年のときも担当していた生徒で、手のかかる子だった。
数学ができる方ではない。僕の授業で赤点をとったこともある。
1年のころは、ほとんどノートを開かず、教科書すら持ってないこともあった。
でも、2年になって、少し勉強するようになった。
プリントを渡すと、わかるところを埋めるようになった。
「先生、ここ教えて」ときいてくるようになった。
そして、3学期は本当に頑張って勉強していた。
本人の認識では「答えを写しただけ」なのかもしれないけど、答えを写すことだって勉強のうちだ。そして、本当に「答えを写した」だけでは試験で点数を取るのは難しい。
Tは、本人の認識はともかく、まわりがいうように「ちゃんと勉強した」のだ。
Tなりに勉強したからこそ「ちゃんとしている人に失礼だ」という発言も生まれたのだろう。

Tの心の中で何があったのかはわからない。でも、Tの成長をとてもうれしく思う。
来年度、3年生の数学の授業はないので、Tと授業で会うことはもうないのだけど、 きっと、ちゃんと勉強してくれるにちがいない。

 

数学者の岡潔先生が、その著書の中で
「人は極端に何かをやれば必ず好きになるという性質を持っています。好きにならないのはむしろ不思議です。」
とおっしゃっている。
「極端にやる」というのは、たぶん「一生懸命する」とか「夢中でやる」といった意味なのだろうと思う。

新しい季節を迎えるにあたって、好きなことを一生懸命してほしい。夢中になってやってほしい。もし、好きなことがないのなら、夢中になれることを見つけてほしい。

一生懸命すれば、夢中になってすれば、結果には結びかなくても、成長できる。
そして、Tのように、成長したら、またここで会おう。会えることを楽しみにしている。