2015年2月12日 (木)

【第365回】 振り返ることY. H. (数学)

 3年生の担任となって、早1年が経とうとしています。この1年、初めて経験することも多く、勉強になることがたくさんありました。その1つとして、「面接指導」があります。生徒に「将来、どんな人物になりたいか」、「なぜ、その職業に就きたいのか」という質問をしているうちに、私自身が「なぜ、教員になったのか」ということを考えるようになりました。
 高校生の頃は、数学が好きで、好きなことを職業にできたらいいなという気持ちが強かったように感じます。大学生になり、教員になるために様々なことを学びました。一番印象に残っているのは、3年生の教育実習です。最後の研究授業で、自分で思うように授業をすることができず、教えることに対して自信を失ったからです。そのとき、初めて教員になることを辞めようと思いました。しかし、実習先の先生は、私のそんな思いはお見通しで、「教員、向いているよ。絶対、辞めるな。」と強く、励ましてくれました。私は、「教員になる」とこのとき強く決心できたと思います。その後、遊学館高校に勤めることになり、たくさんの生徒と出会い、生徒と一緒に日々過ごす中で、様々なことを学びました。時には大変だな、つらいな、と思うことがあっても、「辞めたい」と思うことはありません。全ては、「絶対、辞めるな」という言葉のおかげです。これからも、教員である自分に誇りを持ち続けられるように、努力を続けていきたいと思います。
 この1年は私にとって自分自身を振り返るきっかけになり、とても充実したものとなりました。卒業生の皆さんには、失敗を恐れず、常に前を見て進んでいってほしいと思います。

2015年2月 5日 (木)

【第364回】 保育実習を終えてY. I. (家庭)

「改めて保育士になりたいと思いました。」
「ますます保育士になる夢が大きくなりました。」
「はっきり保育士になりたい!と言えるようになりました。」
「やっぱり、子どもとかかわる仕事はいいなと思いました。」
 
遊学館高校には、将来幼稚園の先生や保育士を目指し、金城大学・短大へ進学を希望する生徒のための幼児教育 コースがあります。
その幼児教育クラスが、保育実習で幼稚園へ行った後の感想で す。
 
保育実習前は、幼稚園の先生・保育士になりたい!!だけど・・・と悩み迷っている生徒も少なくありませんでし た。
例えば、
「子どもは大好きだけど、小さい子とのコミュニケーションのとり方が分からない。」
「子どもは大好きだけど、小さい子とふれあう機会がなく、やっていけるか不安。」
「子どもは大好きだけど、小さい子に自分から積極的に話しかけられるか自信がない」
などです。
 
保育実習で園児と一緒に作業しながら、自分からかかわりを持てるように話しかけてみたり、注意しようと思った けど出来なかったり、
園児からたくさん話しかけられたり、ただただ子どもがかわいかったりと、経験してみないと分からないことがた くさんありました。
この体験を通して、悩み立ち止まっていた生徒たちも不安が解消し、将来の夢に対して自信がついたようです。
そして、幼稚園の先生が園児とどう接しているのかを見て、ますます憧れが大きくなり具体的な目標が出来たよう です。
 
短い時間の中での幼稚園訪問でしたが、園児達にたくさんの元気をもらい、高校生は将来の夢に一歩近づいた保育 実習になりました。
金城幼稚園の先生方、園児のみなさん、ありがとうございました。

2015年1月29日 (木)

【第363回】 虹谷内田 京子 (国語)

広島生まれ広島育ちの私にとって、金沢の冬は寒くて雪が多くて、とても辛いです。
引っ越してきてから3年くらいは、どうしてこんなに曇っているのだろう・・・と、いつも思っていました。

でも、金沢の冬には素敵なものがあります。
それは、虹です!!
雪やあられが降った後、急に晴れると、必ずといっていいほど虹が出ます。
ある朝は、虹のトンネルをくぐり通勤。
ある昼下がりは、くっきりと二重の虹。
朝学習中、ふと見上げると虹。 クラスのみんなが静かに勉強している時に、思わず「みんな虹を見て!!」と叫んでしまった。虹を見るとなんだか幸せな気分になります。

辛いと思う中にも何かいいこと、素敵なものはあるはずです。
皆さんも、辛いことの中に何か素敵なものを探してみませんか。

270129

2015年1月22日 (木)

【第362回】 強く生きるM. M. (英語)

 1月17日、阪神大震災から20年が経ったことがテレビや新聞等で報道され、当時の被災地の様子や現在の様子が伝えられました。この震災は多くの犠牲者を出し、街は変わり果てた姿になりました。震災当初は、「復旧(壊れたものなどが、もとの状態に戻ること。)」という言葉がよく使われていましたが、徐々に「復興(一度衰えたものが、再び盛んな状態に戻ること。)」という言葉を用いるようになりました。この震災で、人々がつらく、悲しく、恐ろしい思いをしたにもかかわらず、「教訓」として、防災や耐震、隣人とのかかわり方など多くのことを学び、前向きに考え、懸命に生きる人間の強さを感じさせます。
 十数年前に卒業した生徒たち数人と年末に会うのが恒例になっています。彼らの大学生活や仕事の話、苦労話などを聞かせてもらっていましたが、最近は父親、母親になった彼らからの新しい話題が増えて、ますます毎年会って話を聞くのが楽しみです。同時に、悩みや心配事を抱えながらも自分や家族のために一生懸命に生きている彼らの姿も印象的です。この数人の卒業生のひとりは、もともと神戸に住んでおり、阪神大震災のあと避災して金沢で生活していました。彼女は卒業後、家族で神戸に戻り、生まれ育った町で暮らしています。そのため、彼女とは毎年会うことはできませんが、会ったときには明るい笑顔で元気に頑張っている姿を見せてくれます。彼女もまた、自分のやりたいことを見つけ、家族や兄弟の世話をしながら懸命に生きています。
 高校3年間の学校生活をともに送り、卒業後はひとりひとりがそれぞれの道に歩みだしています。在校生のみなさんにもこの遊学館高校での出会いや経験をいつまでも大切にして、自分の歩むべき道を見つけ、困難を乗り越えて前進し、強くたくましく生きてほしいと願っています。

2015年1月15日 (木)

【第361回】 箱根駅伝M. Y. (保健体育)

2015年1月2日、本校卒業生、五郎谷俊君(東洋大4)が4年生にして初めて箱根駅伝に出場した。本校の卒業生として箱根駅伝を走るのは、山本憲二君(東洋大)、福村拳太君(東海大)に続いて3人目である。

五郎谷君は、高校2年次にインターハイ決勝進出、全国高校駅伝1区10位など非常に力のある選手だったが、怪我の影響で3年次は、試合で活躍することができなかった。 その思いを胸に、大きな目標を持って「大学で走る」という道を選んだ。登りが得意だったこともあり、東洋大学へ進学してからも「5区山登り」の候補として期待されていたが、東洋大学は常に優勝争いに加わる強豪校でありメンバー争いも厳しく、代表選考にもれて1年、2年・・・と涙を呑んだことだろう。

その五郎谷君が、4年生にして初めて走るチャンスをつかんだ。中継のアナウンサーから紹介されたコメント、「16人の登録メンバーの中では、僕が1番力がないけど山なら勝負できるし、箱根を走れなかった悔しさは誰よりも分かる」という言葉を聞き胸が熱くなった。そして彼は言葉通り、大学4年間の、駅伝選手として7年間の、集大成となる走りを魅せてくれた。自分の走りがチームの入賞につながったことは、何にもかえがたい宝物になったことであろう。

ブラウン管を通しての先輩の走りに勇気をもらい、後輩たちにとって都大路に向け、あらたな刺激となったようである。自分自身も、また、新しい気持ちで生徒たちと共に目標に向けて頑張っていきたいと思う。

270115