2015年6月18日 (木)

【第383回】 山登りK. T. (理科)

日本は山だらけの国です。海無し県はあっても山無し県はありません。でも高山(こうざん)となると話は別です。高山帯というのは標高が高く、背の高い樹木がない場所のことをいいます。石川県には白山という立派な高山があります。白山は日本列島の高山帯の西限に位置する重要な山で、日本に5か所ある高山生態系モニタリングサイトのひとつに選ばれています。

私はかつて北海道の大雪山という山で高山性の植物や昆虫の生態を調べていました。春から秋まで山の上にテントを張って生活し、シャツやズボンはもちろん下着から靴下まで1週間以上着替えることなく全身から悪臭を放ちながら調査をしていました。

大雪山はとても山深い場所なので下界の音が全く届きません。聞こえるのは鳥のさえずりとナキウサギの鳴き声、そして風の音だけです。夕方調査を終えてテントに戻り研究メンバーたちと晩御飯を作って食べ、そして満天に広がる今にも降り注いできそうな星々をしばし眺めて就寝。まさに天国生活でした。

そんな私も最近は山に登る機会がめっきり減ってしまいましたが、白山にはちょこちょこと登り続けています。白山は金沢から日帰り可能で、早起きして車を登山口まで走らせて早朝から登り始めれば朝食の時間には標高2千メートルを越えてしまいます。花や虫を観察しながらだらだら登ってもお昼前には山頂付近にたどり着けます。弁当を食べてからぐるっとお花畑を歩いて、それからゆっくり下山しても明るいうちに登山口に戻ることができます。

いろいろな山に登りたい気持ちもあるのですが、私はなぜか白山ばかりに登り続けてしまいます。数日間隔で登っても、植物も虫も鳥もそして全体の空気感もどんどん変わっていくので、毎回必ず何かしらの季節的変化を味わうことができます。ですから何度登っても飽きることがないのです。

白山は「登ったぞー」と感じることのできる登りがいのある山だし、面積は狭いですが高山帯のお花畑も十分に楽しむことができます。こんな素晴らしい山が石川県にあることはとても幸せなことです。これからも白山には何度でも登り続けていきたいものです。

2015年6月11日 (木)

【第382回】 最近考えていることA. H. (数学)

私は遊学館に来る前は新潟県の中学校で勤務していました。金沢に来て二ヶ月半程です。1年生の担任になり、気がつけばあっという間に6月に入っていました。時が経つのがこんなに早く感じたことは今までになかったなと思うくらいです。そんな毎日の中で、ふと自分の学生時代を思い返すことがあります。
 1999年小学6年の夏、姉とともにセビリア世界陸上をテレビで見ていました。はじめて見る世界陸上はすべてが衝撃的でした。世界にはこんなにも速く走る人が、こんなにも高く遠くに跳べる人が、こんなにも遠くに投げることができる人がいるのかと。そのときの衝撃を忘れる日はなく、中学・高校・大学と10年間陸上競技部に所属しました。時には陸上に夢中になりながら、時には勉強のことで頭が一杯になりながら、それでも自分なりに必死に陸上と向き合ってきました。もちろん辛くて苦しい思いもたくさんしました。走ることが嫌になり、練習をサボったこともあります。足に痛みはないのに、「痛い」と言って練習を見学したこともあります。でも心の中では、罪悪感で一杯でした。苦しくて逃げ出したくなるけど、実際に逃げてしまうと、その数十倍の苦しさがやってきました。そんなときにいつも頭をよぎる言葉があります。それは中学時代の顧問の先生の言葉です。『限界はそこにあるんじゃない。自分で作り出しているんだ。』この言葉を思い出しながら、常に全力で陸上と向き合い、常に全力で自分自身と向き合ってきました。どんなに苦しくても走り続け、百分の数秒でもタイムが縮まったとき、その喜びはとてつもなく大きかったです。一度タイムが出たときの喜びを感じてしまうと、それが楽しくて、また走りたくなる、そんな感じです。苦しさと楽しさを交互に感じながらも、気づけば毎日陸上のことを考えている学生時代でした。
 私は陸上を通して『仲間の存在の大切さ』、『夢中になることの大切さ』を主に感じてきました。もしあの広いトラックで、一人で練習していたら、辛いことを避けて楽をしようと考えてしまうでしょう。ともに練習する仲間がいるから自分の力も発揮できるし、苦しいときは支えあうことができました。それにみんなで大好きな陸上に夢中になっているから、本気で笑ったり、本気で泣いたり、たくさんの感情を共有できたのだと思います。中途半端ではなく、本気でやってきたからこそ、陸上を通して出会った仲間たちは今でも最高の仲間です。だから私は陸上競技に感謝し、陸上競技を通して出会ったすべての人に感謝する心を決して忘れずに、これからも過ごして行きたいと思います。

2015年6月 4日 (木)

【第381回】 『やっとわかった大切なこと』尾谷 力 (地歴・公民)

今回は、父の話をさせてください。私の父は、今年の二月に亡くなりました。 具合の悪いことは知っていましたが、入院することもなくお酒やたばこを楽しむ毎日を送っていたので、こんなに早く亡くなるとは思ってもいませんでした。何一つ親孝行をしないまま最後の別れとなりました。

父は高校卒業後、夢を追いかけ上京しました。帰郷後は教職に就き、自身の夢を生徒たちに託し共に歩む(走る)人生を送りました。多くの教え子に囲まれ充実した人生だったと思いますが、そこで私の人生とも親子以上に大きく重なることになりました。私の高校時代の部活動の監督が父だったのです。 当時を振り返ると、厳しかった父に仲間の二倍も三倍も殴られて納得がいかず苦しんだ時期もありました。しかし、大学卒業後自分と同じ人生を歩むことを決めた私の気持ちを最初に理解してくれたのは父でした。それからは、全てのノウハウ、全ての人脈、そして出来得る限りの協力を与えてくれました。 最近は、「生徒を怒るなよ」が口癖で、今年の年末、「選手がいちばん大切、帰ってこんでいいから選手についておいてやれ」が最後にくれたアドバイスでした。

生徒の皆さん、高校生時代は保護者の方の存在が当たり前で過ぎて、感謝とかありがたいとか分かりにくくなる時もあると思います。保護者の方がどれほど皆さんのことを心配しているのかを気づくことも難しいかもしれません。実は私もそうでした。しかし、間違いなく皆さんの一番の味方は保護者の方です。 そこで生徒の皆さんに提案です。保護者の方に皆さんの思いを伝えてみてください。保護者の方の話を聞いてみてください。 きっと皆さんの人生が色鮮やかになるはずです。もし悩んでいることがあるなら、解決の糸口を掴めるはずです。なぜなら、保護者の方は、みなさんよりも人生経験が豊富で何よりも皆さんのことを考えているからです。

最後に一言。父であり師でもある父さん、今までありがとう。越えられるよう頑張ってみます。

2015年5月28日 (木)

【第380回】 今年こそ夢の舞台全日本へ大嶋 直樹 (芸術)

遊学館の吹奏楽を指導して四年が過ぎ、年々バンドは技術面でも精神面でも伸び、二年連続で北陸大会では金賞受賞。しかし全日本への代表二枠にはまだ手が届いていない。
これまでと同じ思考力、判断力そして練習内容ではこの壁を打ち破る事は絶対ない。何をどう変化させ、進化していくのかを部員と共に考えていた時に、先日金城学園110周年を記念して行われた本校野球部と奈良智辯学園との親善招待試合を応援できる機会をいただいた。90名の本校吹奏楽部を遊学館側と智辯学園側の二つのチームに分けて応援した。いつもの公式戦などの応援席は選手が控えるベンチからは少し離れており、選手の表情をはっきり見ることはできないが、今回の試合では本当に近い距離で応援することができた。私は智辯学園側の応援を担当し、応援席からは選手の立ち振る舞いや息づかいを間近で感じることができた。とても印象的だったのは監督からの一つ一つ言葉を全身で吸収して理解しようとしている姿勢。そして選手同士でムードを創り上げ、気持ちを奮い立たせる気迫ある姿は同じ高校生とは思えないほど存在感があり輝いていた。これが一流の高校生の姿だと憧れを感じた部員も多かったと思う。

楽器を持って音楽に向き合っている時間だけではなく、一高校生として一流の学校生活を送ろうとする姿勢が、夢の舞台名古屋国際会議場のステージに立つ資格を得るということではないか。

2015年5月21日 (木)

【第379回】 考えることO. M. (国語)

 その昔、フランスの思想家で哲学者のパスカルは自分の著作『パンセ』の中で、「人間は考える葦(あし)である。」と言いました。葦とは川辺に生えている雑草のことで、強い風が吹くとすぐに根こそぎ倒れてしまいます。パスカルはこの言葉で、「人間なんて所詮、川辺に生えている弱い雑草のようなものだ。」「でも、人間は考えることが出来る。川辺の雑草と違うところはそこだ。」と言いたかったのでしょうか。それならば、考えない人間は川辺の雑草と同じだということですよね・・・。
 私たち庶民(一般ピーポー)は、往々にして「考える」という作業を放棄してしまうことがよくあります。「面倒くさい」・「考えても答えが出ない」・「わからんし!!」こんな理由をつけて、考えないという行為を正当化して、真剣に考えて、悩んでいる人に向かって、「あんまり考えすぎると体に毒だよ・・」などと言い、あたかも考えないことを健康的で、楽天的に生きることが素晴らしいみたいに語ろうとする風潮はないでしょうか。そして、そんな気の利いた逃げ言葉に私たちは踊らされてはいないでしょうか。
 遊学館高校の生徒は、とても素直で純粋で、勉強したいという気持ちを持った高校生が大勢います。しかしその反面、(これはもちろん全ての高校生に通じることですが)「考える」ことをあきらめて、「わかったふり」・「知っているふり」・「考えるふり」をして、それを誰にも悟られないように隠しながら、授業時間が過ぎていくのをじっと待っている人たちも中にはいます。おそらくそんな人たちは、授業時間が退屈で、ひまで、だから眠たくてしょうがないのではないでしょうか。
 先日1年生の古典の授業で、あえてグループになって、漢文の訓読の練習を初めてやってもらいました。わからないところは仲の良い友達と相談できるし、みんなで考えて悩んで答えをひねり出すことができます。おかげでこちらが答えを言う前に、自分達で解答を見つけ出すことのできた、とてもいい授業になったと思いました。270521_7
 高校生活の3年間なんて、あっという間です。社会に出れば、想像もできないくらいの大変なことが山のように押し寄せてきます。そんな時、お金も無い、社会的な力も無い若い人に出来ることは、有り余る体力と、有り余る時間を精一杯使って「考え・悩む」ことだと思います。「グズグズ考える」「クヨクヨ悩む」そうして自分なりの答えを見つけ出していく・・・。
 そんな時間の重なりが、複雑怪奇、ぐっちゃぐちゃに入り組んだこれからの世の中を渡っていくための最終兵器になるんじゃないかな~と、今日もクドクドと考えています。