【第165回】負けることについてTa. Y. (英語)
小学生の息子がある日持ち帰ったお便りにある言葉がありました。
それは「きちんと負けたことがありますか?」という言葉でした。
息子は最近カードゲームに夢中です。
コンピューターゲームも頻繁にやり、勝ち負けに一喜一憂しています。
その他にも、持久走、縄跳び、オセロ、勝ち負けがでるような事が様々行われる中で、泣いたり、もめたり、怒ったり、落ち込んだりする息子を見ながら、私の心にもやもやとしたものが少しずつ溜まっていたからだと思います。
私自身の生活でも、前日に大きな大会でいいところまでいって負けた生徒と接する事があります。彼らは意外なほどあっけらかんと明るくいつもの調子で話しかけてきます。気にしていないはずはないのに…。
負けを受け入れて、新しい目標に向けてそれを乗り越えようとしているのでしょう。そんな体験を何度か繰り返しそういう力をつけていく彼らには感心させられます。
息子のお便りに先生が「きちんと負けたことがありますか」と書かれたのは、負けた子の事実の受け止め方に問題があると、日々感じ取っているからだと思います。負けることは悔しい、できるなら一生負けることから回避していたいという思いは誰にでもあると思います。
生きている現実は他との比較・相対に支配される事が多くなります。
負けるという事実からは誰も逃げられません。だから、負けるという事実をどのように受け止めていくかは、生きていく上でとても大きな課題です。
負け方の正しい態度を育てておかないと、その敗北感を嫉妬や開き直りの感情に転化してしまいます。挫折を乗り越える力を育てることもできません。さらによくないことは、「負けるくらいならやらない」という逃避すらも生まれます。
比較・相対はこのところすっかり悪者扱いされていますが、そうとは言い切れないと思います。比較する人やものがあるということは、それだけ自己を対象化でき、自分自身という存在を見つめる機会をつくり、その結果、自己のアイデンティティが確立されていきます。
大人にとっても負け方は難しい。
そういう私も負けず嫌いだという点では、ちょっと負けない自信はあります。(笑)