【第488回】 夏のにおい西村 美恵子 (英語)
ちょっとしたことが理由で何かが癖になったという経験はありませんか。私にはそんな妙な癖があるのです。高校生の頃に見て、大好きになったある洋画の中で、主人公が「雨のにおいがする」と言うと、翌朝大雨が降るというシーンがあったのです。主人公はアメリカ開拓時代にインディアンのある部族の中で生きていたけれども元の世界に戻ろうとする白人女性で、雨のにおいはインディアンの知恵だったわけです。それ以来そんな雨のにおいってどんなだろうととても気になり、空気(大気)のにおいを嗅ぐのが癖になってしまったのです。人間の活動がまだ少ない早朝や夜に外でゆっくりと深呼吸をするのです。そして気付いたことがあります。においは長く記憶に残っているということ。
残念ながら、雨のにおいは会得できなかったのですが、季節の移り変わりは暦とは別になんとなくわかるような気がするのです。春は桜が散り始めるころから花の香りがしはじめ、そのあとに土のにおいに変わります。そしてしばらくすると、私が一番好きな、夏の夜のにおいがするようになるのです。そのにおいがすると、「ああ、夏が来た」と思うのです。何のにおいなのかと問われても、うまく説明できないのですが、若葉が吐く息のにおいだと想像して、「夏の夜のにおい」と勝手に命名しています。
夏の夜のにおいがすると、様々な夏のにおいが記憶の中から湧き出してきて、その時、その時の情景とともにあふれ出して、胸の中が懐かしさでいっぱいになります。草むらのにおい、海辺のにおい、プールのにおい、花火のにおい、熱くなったアスファルトのにおい・・・。懐かしい記憶の中のにおいばかりではありません。夏の夜のにおいで生じるもう一つのもの、それは子供の頃夏休みの前にいつも感じていた、これからの夏に対するわくわくする気持ち、それと同じような期待感なのです。懐かしさ、その裏側にある喪失感、そしてわくわくする期待感、それらが混在した気持ちになるのです。梅雨が明けて本格的な夏が始まると夏の夜のにおいではなく、夏のにおいが満ち溢れます。
4月に新学期が始まる日本では、夏休みは子供にとって(もしかしたら大人にとっても)日常生活を離れ、小さな冒険をしたり、何かを集中して行ったりできる自由時間(異界への旅の時間)なのかもしれません。確かに宿題がたくさんあるだろうけれど、自分の時間ももっとたくさんあります。何をするか、どんな風に過ごすか、自分次第。夏休みが終わると元の暮らしが待っているのですから、9月から新学期になる欧米の子供たちより気楽な気がします。戻るところがあるから旅が楽しいのと同じです。
異界への旅と言えば、私も遊学館高校で勤務しはじめた翌年の夏、そんな経験をしました。創部2年目で野球部が甲子園出場を決め、私も応援で甲子園球場に初めて訪れたのでした。テレビでは馴染みのある球場でも、実際に行ってみると、何もかも、球場の外さえも珍しく、野球の応援以外でもとても楽しいところで、野球場を英語でballparkと言う理由がわかるような気がしました。夢の世界を訪れている感じでした。私の中にある素敵な夏のにおいの一つ、それが甲子園球場での一日なのです。
さあ、今年も夏休みが始まりました。諸々の部に所属する生徒たちにとって、日頃よりもずっと長時間の活動ができる期間である上に、高校総体・総文をはじめ、種々の大会、遠征や合宿等々でとても忙しく動き回る時期です。また受験生にとっては、受験に必要な教科の勉強に集中できる重要な時期となります。学生たちにとって、夏休みは自己の向上のための貴重な時間、挑戦のための力を蓄える、または発揮する時期とも言えるでしょう。そうしていつの日か、そんな日々を宝物のように懐かしく思い出される時がきっと来るはずです。それを信じて頑張ってほしいと切に願います。