【第221回】 トイレでベサメ・ムーチョN. A. (数学)
「ベサメ・ムーチョ」は外国のムード歌謡です。
私の母はこの曲がたいへん好きでした。スペイン語で書いた歌詞が、家のトイレの壁に張ってありました。(ちなみに、大事なことは壁に貼れ、特に大事なことはトイレに貼って覚えよ、というのが実家に伝わる便強法でした。)
母は50歳を過ぎたころ、何を思ったのか、急に英語の勉強にとりつかれました。その勢いはとどまるところを知らず、家の壁という壁は英文だらけ。大学で英語の教師をしている弟が舌を巻くぐらいでした。
実家でトイレに入ったとき、ついにその勢いが、英語に飽き足らず、スペイン語にまで及んだことを知りました。
昨日知らなかったことを今日知っている、夕べ判らなかったことが今朝判る、そのことが単純に嬉しい。だからもっともっと勉強したくなる・・・・母はよくそんなことを言っていました。
13年前、一人暮らしをしていた母は、67歳で亡くなりました。そのとき、遺品の中から、NHKの英会話テキストやノートが大量に出てきました。
そして、予想通り、その中にはスペイン語のテキストもありました。
私たちは、「・・・・のための勉強」という発想に慣れすぎてはいないでしょうか。「大学合格のための勉強」はその典型でしょう。しかし、学ぶことは、何かの手段ではなく、それ自体が目的であり歓びであったはずです。
戦前の小学校を出ただけの母にとって、語学の勉強は、足を踏み入れるだけで心踊る世界であったに違いありません。
ところでベサメ・ムーチョってどういう意味でしょう。このコラムを書くにあたって、意味を調べてみました。
「ベサメ」は意外にも「キスして」という意味でした。また「ムーチョ」は、英語の「much」にあたる言葉であることもわかりました。
ベサメ・ムーチョとは、直訳すれば、「キスして、いっぱい」。死を目前にした母が、トイレでつぶやき続けた歌は、「キスして、いっぱい」でした。
昨日まで知らなかったことを今日知っていることは、素晴らしいことです。
しかし、知らないほうがよかったと思うようなこともあります。
ベサメ・ムーチョに乾杯!