メイン

2018年11月 8日 (木)

【第553回】 『山そして自分の姿は自分で見えない』鳥畠 正明 (理科)

 この夏、赤石岳(3121m)と悪沢岳(3141m)を訪れた。南アルプス独特の雄大な山体に山中4日、アプローチに2日を要し、一日の行動は10時間を超えた。体へのダメージも大きく、夏の後半は、ほぼリカバリーに費やされた。結果、様々な身体面の衰えと直面した山行となった。
 ただ、この山行を終えて日本の標高ベスト10は全座登頂を果たし、極めて清々しい気持ちになっている。ほぼ半世紀の登山に一区切りがついた。
 好きな事を続けて来て、いつの間にか目標が見え、それをクリアする。これははなんと楽しいことか! 継続は楽しみなり。

 さて、もう一つ、長く続けているエクササイズがある。まぁ、中高年向けのエアロビクスと言っておこう。なかなか奥が深く、20年たった今でもまだまだ多くの発見がある。特に年に数回東京からおいでになる大先生のレッスンでは、とんでもない体の使い方に毎回目が点になってしまう。
 その時にいつも思うのだが、自分の姿勢が自分の思っているのと随分違う。そして、ホンのわずかに修正されるだけで明らかに内面が変わる。
 自分のやっていることは、なかなか自分では分からない。師となる人に見てもらって、直してもらう必要がある。コーチやコーチングと言うのは、そう言うことなのだろう。
 そして、伸びる秘訣はそのコーチングに、まずは素直に従ってみることだ、と思っている。これはスポーツでも勉強でも同じこと。 あなたは、どうですか?

3011081

3011082

3011083

2017年6月15日 (木)

【第482回】 『山から学んだこと』鳥畠 正明 (理科)

 何十年と山歩きを続けて来て、学んだことを書いて見たい。
 なにより学んだことは、歩いている限り、絶対にたどり着けるということ。とてつもなく遠くに見えるピークや、1000mを優に超える高度差を上がって行く道。それらを目の前にすると、絶望的な思いにとらわれる。
 しかし、心を決めてゆっくりと足元を見つめながら、一歩一歩歩んでいくと、いつの間にかピークは近づき、高度は上がっている。そんな経験を何度したことか・・・。
 あきらめずに歩き続ける限り、いつか目標にたどり着く。あきらめたら終わり。どんなに小さな歩幅でもよいから、前に進んでいく。これは人生にも当てはまる。

 次に思うのは、『道』のありがたさ。試みに山で、道以外の所を歩いて見るとよい。全くと言ってよいほど、前に進めない。逆にどんな小さな小道でも、そこに道がある限り、ズンズン進んで行くことが出来る。道は、前に歩いた人たちからの贈り物と言っていいであろう。
 勉強も同じ。学んでいることは、先人たちからの貴重な贈り物。おかげで私たちは、随分と多くのことを効率的に、自分のものとすることが出来る。ありがたいことである。

 そして、山の醍醐味は山頂からの眺めの素晴らしさに尽きる。神々しい山々の姿。これは見た人にしか、分からないと思う。それと同じで知的な意味でも学ぶことによって高みに上がり、初めて見えてくる素晴らしい景色がある。それは力を尽くしたあなただけに与えられるご褒美。
 どうか皆んなにも、少しでも高い所からの景色を見て欲しい。誰も変わってあげられない。しっかりと自分の足で登ること!

1

2

3

4

2016年1月14日 (木)

【第408回】 ずっと山を歩いて来た鳥畠 正明 (理科)

 もう40年以上、山に登り続けている。たどり着いた頂きは、多分百座を超えるだろう。取り分け、北アルプスの主稜線は、全て歩いた。
 山行での数多くのシーンを覚えている。
 別山から見た剱岳の偉容。北アルプスど真ん中、水晶岳山頂からの360度の大パノラマ。ジャンダルムでは見上げる逆層スラブに震えた。完全にクライミングハイになった大キレット通過。黒部五郎カールを流れるせせらぎ、岸辺の花。蓮華岳でのブロッケン現象。オオシラビソの林をゆく時の甘やかな香り。南岳のコマクサのピンクの絨毯。燕山荘から抜け出して見た夜空に宝石を散らまいたような星々。船窪小屋の心のこもった素晴らしい食事。5時間の下りで霧の中、誰一人出会わなかった仙丈ヶ岳。
 まだまだ、沢山の思い出を記憶の中から取り出すことが出来る。こんな思い出を沢山持てた人生、そして山々に感謝している。

 さて、年若い遊学生諸君よ。ヴァーチャルな世界での遊びも面白かろう。自然と隔絶された快適な空間で過ごすことも、それなりには素敵なことだろう。
 それでも、一生のうちに一回でも、山に(それも、そこそこ高い山に)に登ってみることをおすすめする。そこで受け取る体験は、何ものにも代えがたい。
 どんなに苦しくても歩いている限り、必ず頂上に着く。そんなことも山は教えてくれる。実感出来る。ベルグ ハイル!

Img_38701※燕山荘から臨む燕岳

2014年8月21日 (木)

【第341回】 シンボルツリーを見あげて・・・鳥畠 正明 (理科)

 初めて本校を訪れたとき、中庭(丁度校舎の中心辺り)に大きな木が聳えているのが目に入った。見た瞬間に榎(エノキ)だと思った。そう樹名に詳しい訳ではないのだが、偶然、前々任校の校木が榎でその姿は見慣れていた。
 ただこれ程までに大きい榎は初めてだった。葉っぱを落とした枝を一杯に広げて悠然とたたずんでいる。即座に、シンボルツリーと言う言葉が頭に浮かんだ。
 言葉だけなら、当然ずっと以前から知っていた。けれども、実際にそれにぴたりと符合する風景を見た事はなかった。
 それが目前に現出していた。
 年若い生徒諸君には、ただ、中庭にある大きな木か・・・ぐらいにしか思えないかもしれない。けれども、ちょっと考えて見て欲しい。この木はいつからここにいるのだろう。
 最初から大木であったはずはない。植えられたときには、せいぜい、人の背丈くらい。ひょっとしたら、もっと小さかったかも知れない。それから何十年、おそらくは、百年近い年月を経てこの大きな木に育った。そして、初めてこの地に根を広げ始めたとき、そこにすでに本校はあったのだ。
 そして、本校と共に育ってきた。ずっと生徒を見守り続けてきた。あなたの祖母を、母を、ひょっとしたら曾祖母を見ていたかも知れない。

 木が育つのは、まことに人の育つのと似ている。一月や一年程度では、しっかりとその成長を見ることは難しい。けれども、生きている限り、少しずつ少しずつ天に向かって伸びている。そして、いつの間にか、仰ぎ見るばかりの大木となる。
 人も同様に、少しずつ少しずつ成長する。一ヶ月やそこらでは、成長は目に見えない。だけれども、確実に成長し続けている。
 ましてや、年若い頃は一番伸び率が大きい。だからこそ、しっかりと自分に栄養分を与え、大きく育たさねばいけないときだろう。他の木と比べる必要はない。昨日の、いや一年前の自分からどれだけ伸びたかが、勝負だ。少し長いスパンで物事を考え、自分を放り出さずにコツコツと学び続ける。それを大切にしていって欲しい。

 決して広くはない校地だが、本校には随分と多くの木々(それも年を経た)がある。緑を大切にしてきた先人の想いに崇敬の念を禁じ得ない。

260821