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2013年2月14日 (木)

【第267回】 「超々高齢社会」どう生きるのか

 電車やバスの中、デパートで買い物する人、街中で見かける人、どこでも、高齢者の占める割合が多くなったような気がする。戦後、産めよ増やせよと、合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子どもの数の平均値)が4人を超えていた、いわゆる団塊の世代の時代から、徐々に出生数が減少し、1989年には親世代を支えるのに必要な2人を初めて下回り、以後、少子化が続いている。2000年に入り、1.26という最低値を記録してから、今日、1.3人辺りで推移している。今後、この状態が続くとすれば、ますます少子化に歯止めがきかず、高齢者を支える世代の減少は危機的状況に陥り、2050年頃には、人口の約半分近くが高齢者という「超々高齢社会」を迎えることになる。

 生まれた時から周りには物があふれ、何不自由なく成長したであろう現代の高校生たちには、自分たちが社会の中心となって活躍する時代が、どんな世の中に変わっているのか、想像をすることが困難だろう。しかし、これが現実なのである。このことを、私たちは皆、各々しっかりと受け止めなければならない時期にきている。人は一度オギャーと生まれるや、誰しも高齢期という人生の終末を迎えるのである。自分が高齢者になった時に、どう生きたいか、どう支えられたいか、高齢期の人生設計を考えておくことは、もはや高齢者だけに限ったことではない。

 加齢とともに人は皆、身体機能が衰えていく。これまで出来ていたことが、出来なくなり、人の手を必要とするときが必ずやってくる。高齢の両親、とりわけ、認知症の母の介護を通して、学んだことが多かった。排泄機能の衰えがひどく、尿失禁には、正直なところ悩まされた。毎晩、寝る前に、布団におねしょシーツを敷き、おむつを当て寝てもらっても、朝方起きてみると、おねしょシーツを毛布代わりに掛けていて、布団は濡れ、本人の着ているものも、ぐっしょりだった。朝は戦争だった。それから、本人を着がえて、濡れたものを一式洗濯し、布団を干し、朝ごはんを作り、昼食用のご飯も用意して、それから、学校に出てきていた。あの頃は、自分が大変なんだ、自分がと、自分のことしか考えていなかったように思う。母の立場に立って見れば、おねしょシーツを濡らしていけないから、と逆に迷惑をかけないための行為だったのかもしれない。おむつも時々はずして、隠してあった。布団の下や、こたつの中、特に腹が立ったのは、きれいに洗濯してある、衣類の間に隠してあった時だった。これも、汚しちゃいけない、汚してしまった、申し訳ない、そんな思いからの行動だったかもしれない。徘徊もあった。何度も警察の御世話になった。親の介護と一口に言うけれど、こんなに大変なことはない。その負担を救ってくれたのが、社会の仕組みだった。2000年から始まった、介護保険制度のおかげで、家族だけでなく、社会みんなの手で介護する時代へと変わってきた。

 近い将来、高齢者が高齢者を介護する時代がやってくるだろう。元気な高齢者と虚弱な高齢者、この両者を分けるのは一体何なんだろうか。父親は3年前に他界したが、死ぬまで、気もしっかりして、認知症の母を気遣い、支えていた。その父は、趣味の盆栽が自慢で、体力の衰えを防ぐための畑仕事などにも精を出し、どちらも、良く出来たものは、惜しみなく、人様にあげることが喜びである人だった。いつも、前向きに物事を考え、相談を持ちかけると、「明日は明日のこと」と言ってくれて、そうだなあ、考えていてもしょうがないかと思えてくるのだった。「他力本願」(仏教の世界では意味は違うのだが)という言葉があるが、他人を当てにして生きる生き方か、自分の人生にきっちり責任を全うする生き方か、その差ではないだろうか。

 自分が将来どうなるか予想もつかないが、世話をされる高齢者になるよりは、世話を出来る高齢者でありたいと願うところである。

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