« 【第282回】 「倫理」という授業 | メイン | 【第284回】 月と電子 »

2013年6月13日 (木)

【第283回】 言葉と言語、そしてワード。西村 美恵子 (英語)

  何かの心理テストなのか、“あなたはこれから無人島に行きます。水や食料など最低必要なもの以外に、何か一つだけ持って行くことができます。あなたなら、何を持って行きたいですか”という問題があった。私は、あれこれ考えることもなく、“本”と答えていた。でもそのあとから、一冊だけなら何にしようとか、せめて数冊は必要だとか、真剣に悩んだりして。でも、今なら迷うことなく答えるだろう、“電子辞書”。

  私の持っている電子辞書は、一つは英語専門のものだが、もう一つはいつも授業に持って行く高校生向けのもの。それは日本語、英語関連の辞書ばかりでなく、社会や理科の各教科の用語集や小辞典、数学の公式集、百人一首にクラッシック音楽の一節、百科事典、ラジオ英語会話に数か国語のトラベル会話集等々、書ききれないくらい盛りだくさんの電子辞書である。私が高校生の時にこれを持っていたなら、もっと勉強していただろうに。

  その電子辞書の中で一番のお気に入りは、広辞苑。24万項目以上とかで、動植物の写真や図、野鳥などは鳴き声までも収録されている、もはや百科事典である。何か気になることがあると、まずは広辞苑から。例えば、自分自身が知っているつもりの日本語がどうも怪しいと思うとき。それに日々漢字も危うくなっているし。また広辞苑に載っていなければ金沢弁なのだと納得したり、流行りの言葉が載っていたら、ついに日本語になったかと複雑な気持ちになったり。カタカナ語もたくさん載っている。英語をそのままカタカナにしたものもあれば、いわゆる和製英語も載っている。そういえば、私はずっとワイシャツはTシャツのようにYシャツのことで、このYは襟の形なんだと思い込んでいた。宮永先生に“それは音からですよ。”と教えられた。white shirtが、ホワイトの強く発音される部分のワイだけが聞こえてできた言葉なのだ。広辞苑にもそのような説明が載っていた。同じ例は、かなり前になるが、小麦粉をメリケン粉と呼んでいたことがあった。メリケンはAmericanからきたのだろうと想像がついた。広辞苑によると、国産の小麦から作ったものはうどん粉、アメリカ産の小麦からのほうはメリケン粉と区別したとか。言葉は時代とともにあるものなのだとしみじみ感じさせる。言葉に限っても、知っているつもりでも、実は未だに知らないことはたくさんある。知らないことに気付いていないことはさらにたくさんあるだろう。だから知ることは邂逅であり、うれしいこと、幸せなことなのだ。

  もともと日本語は外国語である漢字を文字として使用したのだから、言葉(中国語)もたくさん入ってきた。和語がもともとの日本語、漢語が中国語から来た言葉(音読み)。それに和語に同じ意味の漢字を当てて表した言葉(訓読み)。また日本に入った時期により漢字の音も漢音、呉音,唐音などがありそれも忠実に読み方に取り入れた。(漢字一文字を一音だけに限定して用いた韓国語がうらやましくなるところだが)日本で作られた漢語もある。そのうえ外来語である。古いものは漢字が当てられていたりするがほとんどがカタカナ語である。特に文を書くとき、漢字、ひらがな、カタカナと3種類の文字を使い分けなければならない。その上アルファベット文字も用いられている。留学生に日本語を教えていて一番気の毒に感じるのはこの使い分けである。言葉の由来を想像できないとわけられないだろう。英語のカタカナ語は英語を母語にする人にすぐに理解してもらえる気がするが、実際はアクセントや音が違いすぎて元の英語に気付いてもらえないようだ。でもこのことは日本人の学生も実は大差ないことのように思える。生まれた時から多くの外来語の物と言葉に囲まれて生きてきて、どれが元々の日本語か、外来語かなどと音だけで判断できるだろうか。それは学生に限らず、日本人すべてに言えることだろう。

  言葉は誰にとってもはじめは音である。しかしながら、成長するにつれて文字を学び、いわゆる読み書きができるようになっていく。つまり母語でさえも、しっかり学習しないと、正しく言葉を使うことはできないのだ。日本語では漢字の読み書きに加え、カタカナ語の意味を正確に把握する必要がある。カタカナ語検定なんてどうでしょう。

  英語を教えていて、英語と日本語の間を行ったり来たりしていると、言葉遣いのちょっとした違いが気になってしようがない。一種の職業病かも。そのため増々重くなっていくのでしょうか、私の電子辞書依存症!