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2009年2月25日 (水)

【第77回】イレブンバックI. I. (国語)

 卒業式が近づいてきました。

 本校が「遊学館高等学校」となって、13年になります。僕はこの間、平成11年卒業の第1期生と、今回卒業の第11期生の2回だけ、1年から3年へと持ち上がりました。そのぶん、この二つの学年には多くの思い出があります。

 第1期生は、明朗快活で積極的な生徒が多く、自分たちが「遊学生」としての伝統をこれから作るんだという、強い意気込みが感じられました。それまで「金城高等学校」という女子校であったわけですから、先生方は男子を指導する経験がありません。男子生徒は、もしかしたら、そういった先生方の指導に少し戸惑っていたかもしれません。それでも、とても明るく自然に高校生活を送っていたように思います。学園祭や体育祭といった学校行事も、生徒主体となり、ずいぶん様子が変わりました。

 そして、大学進学を希望する生徒が急増しました。「自分で自分の道を切り拓いていけ」また「自分の道が分からなくても、道を探すことを止めてはいけない」という僕の指導方針を、生徒たちは真剣に受け取って、自分はどうすればいいかを考えてくれていました。現在、第1期生たちは、三十歳を前にして、それぞれ社会で活躍していることを耳にしています。その中の一人は、本校の先生として頑張っています。

 今回卒業の第11期生は、素直で優しい生徒たちでした。
ですから「自分で自分の道を切り拓いていけ」という言葉には少し抵抗があったようです。

 1年次は、なかなか自分の道が見つからず、悩む生徒が多かったような気がします。僕は、様々な場面で、指示しがちになりそうでしたが、失敗があろうとも、生徒たちの判断・決断を我慢強く待ちました。指示過多になると、過保護に育った子供と同じように、自分で考えようとせず、指示待ちをするようになり、自分自身の人生に関わる重要な決断も人任せになります。そうなると自分の人生にも責任を持たなくなります。

 しかし、心配は杞憂に終わりました。2年次からは、ちゃんと自分の進むべき道を見つけ、目標を持って、努力を始めました。そして、現在。ほとんどの生徒たちが自分の夢を叶えつつあります。中でも、バトントワリング部は、とうとう念願の全国優勝を成し遂げたのです。

 第11期生たちは、人生の荒波にもまれながらも、岐路に立ったとき、自分で考え、自分で判断・決断し、自分の信じた道を進んでいくでしょう。

 「イレブンバック」はこの第11期生たちの同窓会名です。ちょっと変わったネーミングですが、いつの日か、志を果たして、「第11期生ここにあり」と誇らしげに、母校を訪ねてくるものと信じています。

 少し早いけど、卒業おめでとう!
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2009年2月18日 (水)

【第76回】敗北から何を学ぶか、次の一歩が大切松田 淳 (地歴・公民)

2月7日(土)いしかわ総合スポーツセンター、春高バレー石川大会女子決勝“遊学館VS金沢商”覇者・金商バレー部に、わが遊学館がどこまで一矢を報いるか…胸が高まる。金商バレー部の伝統と厚み、類まれな素質を開花すべく日々厳しく練習を積み重ねてきた彼女達は、遊学の反撃にぶれることなく、自分たちのゲームを進めていく。動じることなく自分たちのペースで。

結果、3セット連取され完敗。さすが金商バレー部。石川県の代表として“全国大会”という舞台で金商バレーが躍動されることを心から祈りたい。一県民として心からエールと期待を送りたい。彼女達には今日はひとつの通過点であろう。彼女達の視線はもっとその先にある大きな目標を見据えている。

バトントワリング部の顧問としての私や、スタンドでチアとして応援していた部員も今日の試合からいろいろなことを学ばせてもらった。スポーツは勝利からも敗北からも学ぶべきことが多くある。わがバトン部は全国大会に19年連続出場するなかで、何度涙を流してきただろう。何度悔しさと非力さを痛感させられ、すすり泣きで沈痛な雰囲気のバスの中、帰ってきたか…。その都度、突きつけられたのは、「自分たち以上に努力していたチームがいた」という事実。勝負は冷たいまでに客観的で非情である。勉強もスポーツも、入試もすべてそうだろう。

『夢はかなえるためにある』というが、人並み以上の努力と練習を継続してしてこそかなうもの。『やればできる』というが、やらなければできない。できなかったのはやれていなかったという事実。「バトンに関しては未経験者集団、そんな自分たちが必死に努力してきたんだ…」全国大会覇者のチームにはそんなことは全く関係ない。ひたすら高いレベルで王道を走り続けていた。しかし、忍耐と挑戦の積み重ねから何が必要で何が足らないか少しずつ見えていたことも事実だった。

20回目の全国大会で、ようやく全国優勝…。大きな夢を設定するということは、すべてをそれに投入するという覚悟と不断の努力を要する。歴代の先輩達が歯を食いしばり、目標を下げることなく挑戦し続けてくれたことに心から感謝したい。忍耐と挑戦の歴史がわがバトン部にとって、最高の財産となっている。

がんばれ!遊学館バレー部 !!今日の敗北から何を学ぶか、次の一歩が大切…君達が全国をめざすなら、金商バレー部以上の練習をするしかない。彼女達の素質と努力を超えるには、それ以上の練習をするしかない。答えは明確。優勝は石川県一の練習の証し。金商バレー部の練習がそれを証明したのだ。彼女達は県大会優勝が目標なのではなく、全国大会優勝が目標なのだろう。

がんばれ!遊学館バレー部 !!高校時代に、とてつもない大きい目標を掲げ、圧倒的に強い者に挑戦できることはとて意義深い。次の一歩をどのように踏み出すかだ。悔しさというモチベーションだけでは、夢を追えない。希望もないと夢を追えないだろう。しかし、悔しさも大切な原動力になる。チーム一丸となって、今回の敗北について苦しみ、悩み、研究し、検証する。チーム一丸となっての高い目標設定、不屈の練習姿勢、環境をカバすべく知恵と工夫を絞り出す。自分達だけに通ずる理由を作った瞬間に敗北が決まる。翌日から再び飽くなき挑戦が続くだろう。君達が再び決勝への舞台に躍り出たときに、私達はまた必ずスタンドに集う。王者に対しどれだけの戦いを挑むのか、どれだけの覚悟で努してきたのか、その証しを見るために。

がんばれ!遊学館バレー部 !!七転び八起き。部活動を通じて、将来の人生のいくつもの指針や生き方を学んでいる。君達のチームの持つ明るさと元気よさ、遊学らしさを大切に。遊学のスポーツクラブはとにかく明るい。挨拶がしっかりしている。明るく元気な校風の下、部活動を通じての先生と生徒達の日々の“遊学”が、明日からまた体育館で、そしてグランドにと、途切れることなく続けられる。

遊学館バレー部!がんばれ!!

(終)

2009年2月11日 (水)

【第75回】バドミントンと私中村 裕行 (地歴・公民)

 この学校に勤めて、また、県外から石川県に来て良かったと思うことの1つに

バドミントンとの再会があります。

 私が金城高校(遊学館の前身)に赴任した時、バドミントン部は全国大会の常連でした。
(さらに昔の昭和33年には、全国大会の個人戦で単複二冠を果たしています)。

しかし、様々な事情が重なり、次々と顧問が変わっていくうちに、活動も低迷していったようです。

いよいよクラブ存続の危機が訪れ、当時の部員からラブコール(おそらく誰でも良かったのですが…)を受けて、私は中学時代の経験とバドミントン好きだけを頼りに、自ら手を挙げて(同時に3つ目となる)顧問を引き受けました。

石川県は「バドミントン王国」とよばれるほど、バドミントンが盛んです。

自分の勤務校からバドミントン部がなくなる、そんな寂しいことだけは避けたい、
というのが当時の気持ちだったと思います。

 あれから、10年以上の年月が流れました。

私が顧問になってからの卒部生も今年度で 100名を超え、クラブも少しは強くなりました
(先日、卒部生有志により、クラブに電光掲示の大型タイマーが寄贈されました。
ありがとうございます)。

今では、卒業後も大学や社会人のクラブでバドミントンを続け、時には現役の部員を指導してくれるようなOG・OBも増えてきました。

また、私も愚息と通って世話をしたジュニアクラブの子どもたちが、本校でバドミントンを続けてくれるようにもなりました。

地縁のない私にとって、職場以外の人間関係はほとんどバドミントンつながりですが、
部員共々お世話になってきたケースも多く、この場を借りてお礼申し上げます。

指導者としてはまだまだ未熟な私ですが、本校には手本としたい名監督や名選手が
たくさんいるので、年齢や立場を超えていろいろと勉強になります。

 高校で部活を続けなかった私が、今さら思い出したように、バドミントンにハマっている、

自分でも不思議です。

仕事の合間や休日しか面倒みることはできませんが、このような環境へ身を置けることに感謝しつつ、部員達とバドミントンの奥深さをもう少し追い求めていければ、と思っています。
(2/5記)

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 ところで、この「先生コラム」も私で2巡目を終え、75回を数えるに至りました。
世話役として、読者の皆様と執筆者である先生方に感謝ひとしおです。
次回からの3巡目にも、ご期待ください!

2009年2月 4日 (水)

【第74回】高校生の君たちへ あえて勉強の話をしよう(その2)渡辺 祐徳 (英語)

◆大統領が力をくれた!◆
 "My fellow citizens."
 この一声で、アメリカ第44代大統領オバマ氏の就任演説が始まった。アメリカ史上初の黒人大統領誕生の瞬間だ。オバマ氏本人の肉声を英語のままで聞いてみた。国民一人一人の責任ある行動と国の再生を訴える、新大統領の力強くも落ち着いた言葉に、確実な時代の変化を感じた。また涙を流しながら聞いている人たちの多いことに、その期待の大きさを感じた。

 ○○年前、高校受験を目の前に控えた年にも、アメリカのカーター新大統領の就任演説の様子が放送された。当時はまだまだ未熟な英語力しかなかったから、ほとんど聞き取れず、大統領の高めの声だけが頭に残った。「スピーチや映画、歌などの英語を聞いて理解できるようになりたい。でも本当にできるようになるのか?」
 やる気と不安が入り交じっていたが、「できるようになりたい」という気持ちを強く持てたのは、もしかすると大統領が背中を押してくれたのかも知れない。

◆夢中で英語を求めた!◆
 私が中高生の時は、外国人の英語に触れる機会はほとんどなかった。
学校の授業はすべて日本人の先生であり、ビデオもない時代で、家で好きな洋画を英語で楽しむこともできなかった。それでも、ラジオの英語講座は大いに活用した。ラジオを決まった時間に聴くだけで、授業料はかからないし、テキスト代は一ヶ月数百だけ。会話、歌、映画の台詞など、さまざまな材料が盛り込まれていて、非常に楽しかった。毎回、次の放送が楽しみだった。

 時々映画館まで、洋画を見に行った。
私はなんと、必ずテープレコーダーを映画館に持ち込んでいた。映画の台詞を何度でも聞いて、たくさんの表現を覚えたかったのだ。その頃のテープレコーダーは、今の携帯型音楽プレーヤーのように小さくはなく、肩からかつぎ、片手にマイクを持ってじっとしてなければならなかった。いつ映画館の人に呼び止められるかとハラハラしながらも録った映画の台詞は今でもほとんど覚えている。(よい子はまねをしてはいけません。)

◆進路を考えたとき◆
 高校2年生のとき、学校で進路希望の調査が行われた。
当然英語の道を選ぶだろうと親も思っていたようだが、実は英語の他に進路として考えていた道があった。それは音楽だった。高校に入って吹奏楽部に入り、楽器を演奏するこの楽しさにすっかりのめり込み、一時は音大進学まで考えた。だが親に相談したときには、即却下された。そんな甘い考えで生きていけると思うのかということだった。もっともだと思った。私が目指そうとしていたのは、日本に数えるほどしかいないプロの演奏家である。仮に音大を卒業しても、まずなれる可能性の低い狭き道である。親は正しかったし、自分でも納得できた。

 そんな浮気心から元のさやに戻るように、また英語の道を目指すこととなった。だが、もう迷いはなかった。むしろ今までよりも強く、進学の意欲が高まっていた。「大学に入ったら絶対に留学をして、英語の達人になる!」

 教室の壁に、全国の大学ランキング表が貼ってあった。「日本の外国語学部で最高のランクはどこだ?」

 真っ先に目に飛び込んできたのは、関東地方にあるA大学だった。関西地方のB大学は、偏差値的には入りやすいが、公費留学制度が日本一充実している。この2つの大学を目標の中心とし、受験勉強に取り組んだ。

 今回もとりとめのない話になったが、決して自分ががんばったということをいいたいわけではない。一生懸命に何かに専念すると、そこから将来が開けてくることもある。自分が打ち込める何かを、君たちにも持ってもらいたい。その参考になればと思うばかりである。