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2016年3月10日 (木)

【第416回】 金沢今昔物語N. M. (地歴・公民)

 前回の先生ブログで私は金沢の地名に関することを書きました。今回も金沢の歴史と現在の遊学館高校に関するネタを1つ紹介します。ちなみに、今回書く内容を学問分野では「歴史地理学」といいます。

 江戸時代に城下町として栄えた金沢。加賀100万石と言われる豊かな農業生産高や手工業で発展を遂げ、当時の日本で有数の経済力を誇っていました。そんな江戸時代の寛文7年(1667年)の金沢の様子を示した地図に「寛文七年金沢図」というのがあります。これは現在石川県立図書館に所蔵され、石川県の重要文化財に指定されています。最近は便利な世の中になり、インターネット上でこの地図を拡大して見ることができます。
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/1700105100/1700105100100060/kanbun-kanazawa/

2803101寛文七年金沢図(石川県立図書館所蔵 掲載許可済)

 この図では金沢城を中心に上に東、下に西という今の地図表記とは異なる方位で金沢市中が描かれています。一見すると、どこがどこだか判別しにくいですが、所々にヒントとなる「場所」があります。例えば、青色で記された線。これは江戸時代に整備されたと思われる水路です。これらは現在でも鞍月用水や辰巳用水やその支流として残っています。流路もほぼそのままです。この水路の曲がり具合を現在の地図と比較すると場所の特定が容易にできます。また、金沢市内に残る細い路地もこの図に描かれているものがあるのでさらに詳しく知ることができます。

 このような観点で遊学館周辺を見ると、興味深いことに気づきました。  

2803102

 上の2枚の図を見てください。左が現在の地図、右が同じ場所を「寛文七年金沢図」から拡大して方位を現在のものに合わせて示したものです。両図に同じ色の丸で囲んだ部分がいくつかあります。これは江戸時代の面影を残し、現在でも利用されている道路や水路です。図の上、黄色で囲んだところは遊学館高校からローソン金沢本多町三丁目店へ行く途中で曲がるところです。赤色は鱗町交差点近くの北陸銀行と石川県幸町庁舎の間にある水路です。緑色と青色はそれぞれ地点特定の際に参考になる特徴的な曲がり方をする地点を示したものです。他にも幸町周辺に江戸時代の道をそのまま利用した道路があることも分かります。

 このようにみていくと、遊学館高校周辺は江戸時代の様子をよく残しているのが分かります。そして現在遊学館高校の建っている場所はなんと遊学館は江戸時代の町割り・区割りの中にあるのです(オレンジ色の四角で囲んだ一画)。遊学館高校の門から出て、犀川大通りに向かう道(黒色)も江戸時代の道路をそのまま踏襲しているようです。

 350年前からある道を歩いたり、自転車で通行したりできる遊学館高校の通学路は貴重なものかもしれません。

2014年9月18日 (木)

【第344回】 身近な歴史を求めてN. M. (地歴・公民)

 金沢の街を歩くと、様々な「文字」が目に入ってきます。お店の看板、飲食店のメニュー、イベントの告知・・・実に多くの文字情報があり、道行く人々の興味を誘っているように感じます。そんな文字情報の中で私の興味を引くのが「地名」です。

 私は今年4月の本校着任にともない、金沢に住むようになりました。その前は奈良県で過ごしていました。歴史学(古代史・考古学)を専攻していた私にとって地名は現在に古の歴史を伝える身近な文化財です。  奈良や京都は古代に都が置かれ歴史の舞台となっており、奈良市大安寺町や京都市上京区晴明町といった古代の寺院(大安寺)や人物(安倍晴明)に関わる地名が現在でも残っています。宅地やビルのある場所であっても、地名を見ることでその場所がかつてどのような人々の営みがあったのかを垣間見ることができます。そのため、私は時間があるとき街を歩いて(時には自転車で)回り、地名探訪を行っています。

 金沢は江戸時代の「加賀百万石」と言われた前田氏の城下町というだけあって、実に多くの武家や町人に関わる地名が残っています。金沢城公園の北には大手町があり、この場所が金沢城の正面であったことが分かります。少し東に目をやると、材木町がありすぐ横を浅野川が流れていることから、日本海を経由したり、金沢郊外で切り出されたりした材木がこの場所に集められるか、加工場があったのではないかと推測することができます。金沢は幸いなことに、地名の由来が記された石碑が建立されており、その場所がかつてどのような人々の営みがあったのか知ることができます。

 本校の位置する金沢市本多町もその由来を探ると、江戸時代初期に加賀藩に仕えていた家老本多氏の屋敷があったことに由来しています。屋敷自体は北陸放送社屋周辺にあったようですが、屋敷周辺には本多氏を支える家臣の住居や武道を磨くための施設があったかもしれません。遊学館の地下にも江戸時代に遡る遺構(建物跡)や遺物(土器や生活用具)が眠っているかもしれません。

 歴史は博物館や遺跡で展示物を見たり、本で知識を得たりするだけではなく、日常の中の目に付くところにもあります。その最たるものが地名です。
 遊学館の生徒は毎日の登下校で金沢の街を行き交っています。通学路で通る地名や住んでいる地域の地名に目を向けて、「この地名の由来ってなんだろう?」と興味を持つ機会は生徒全員にあると思います。一度、自分の住んでいる地名の由来を調べて、地名の背後にある昔の人の生活を垣間見てはいかがでしょうか。

260918

本多町の由来を示す石碑(北陸放送前)