【第872回】「夏目漱石「こころ」 小説を読んでみよう」和田 康一郎 (国語)
日本の高校生は、最も難しいタイプの小説まで、在学中に学んでしまいます。代表例が夏目漱石の「こころ」です。「こころ」の内容を理解するためには、ちょっとした発想の転換が必要です。皆さんがこれまで出会ったほとんどの物語は、主人公に寄り添って読んでいけば良いものだったことでしょう。しかし、「こころ」は、主人公の言い分を信じないで、客観的に状況をとらえる必要があります。「こころ」は、心がいかに客観的状況と異なる光景を見せるかを描いた小説だからです。
主人公の「先生」は、親友Kを自殺に追いやったことに、生涯苦しみます。どう行動すれば、Kの自殺を食いとめられたかを考えることが、「こころ」を読む焦点です。
主人公の「私」(若い時の「先生」)は、畏友Kの告白を聞いて恐怖を覚えます。これが、失敗の始まりです。道への精進のみ考えていると思われたKが、下宿先のお嬢さんに対する恋を告白したので、敵わない相手が自身の恋のライバルになったと思い、「私」は動揺します。しかし、冷静に状況を見るなら、Kは別にライバルだと恐れるほどの存在ではありません。それなのに、進むべきか退くべきか教えてくれと批評を請う親友を、「私」は痛撃してしまいます。Kを救うチャンスでしたのに。
「私」は「お嬢さんをください」と保護者の奥さんに談判します。Kの心を知りながら出し抜く、裏切り行為です。ですが、ここでなぜ奥さんが了承したか、Kが同じことをしたらどうなるかを「私」は想像するべきでした。(Kには、この談判はできません。)「私」には一生食べていける親の遺産があります。一方、Kは実家からも養家からも勘当され、授業費等も卒業まで「私」が面倒を見ている身です。Kが談判しても、常識人の奥さんは断り、卒業後どうするのか決めるのが優先だと、Kを諭すと予想できます。
Kに批評を請われた際、「私」は次の三つのような声をかけるべきだったと思われます。
1、恋をするのは恥ずべきことではなく、祝福すべきであるとKに伝える。
2、ただし今回は、残念ながら経済状況が悪いから退くべきだと、Kを諭す。
3、その行動選択はタイミングが悪いためであり、Kの人格には問題ないと請け負う。
このように話せば、「私」は親友としての務めを果たすことができたでしょう。
恐怖が見せた幻影(=Kを倒すべき恋のライバルと考える)に脅かされて、「私」は親友に対する裏切り行為とそれがもたらした自殺に苦しみました。<心>でなく<頭>で客観的に状況を見る必要があった、と指摘ができます。
「語り手の言い分を鵜呑みにしてはいけない小説」という最も難しいタイプにまで、在学中に皆さんは接します。ですから自信を持って、他の名作小説の読書にもチャレンジしてみてほしいと思います。