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2023年11月24日 (金)

【第810回】「猫と暮らすこと【2】」O. M. (国語)

 我が家に猫(小太郎・雄のマンチカン)がやって来て、もうすぐ8年が経ちます。以前このブログでも書いた、「猫と暮らすこと」の今回は第2弾です。
 先日、高校の時からの大阪の友人から、ホームセンターのペットコーナーで売れ残って、でかくなり、やさぐれていた雄のアメリカンショートヘアを格安で購入したという報告がありました。彼もずっと、その売れ残りが気になっていたらしく、飼うかどうするか、春ぐらいからずっと意見を求めるラインを送ってくれていました。半年ぐらい彼を悩ませていたことは「命をお金で買っていいのか?しかも、大幅値下げ価格で・・」ということらしかったのです。いい大人がそんなことで悩んでいたのかと笑い話になりそうですが、社会的地位(中小企業ですが社長さん)もあり、剣道7段(全国で数十人しかいないらしい)の達人で、成人式を終えた二人の息子さんの父親が、たかだか猫をお迎えすることぐらいで夜も眠れず真剣に悩んでいる姿には、やはり心打たれるものがありました。
 そうなんです。「猫と暮らす」ということは、そこまで人の生命観や倫理観を揺るがす一大行事なのです。そして、猫という存在は、私たちの意識の奥深い場所に、まるで誰も見たことのない深海の巨大生物のように居座っているのです。まぁ、要するに、とっても大事な存在だということですね。
 異常気象だった暑い暑い夏と秋が終わり、突然冬がやってきました。今年も我が家の6.5㎏の巨大猫は、毎晩私の左脚に乗っかって暖を取りながら爆睡しています。そして私は、今年の冬もおかげさまで脚を全く動かせず、寝返りも打てず、腰をつらせながら毎朝嫌な夢で目を覚ましています。でも、そんな朝でも無邪気に自分の顔をご主人さまの顔のすぐ前に持ってきて、ゴロゴロのどを鳴らせながら「ニャン」と鳴く我が愛猫を今朝も撫でている自分をかわいく思います。
(かわいいのは猫とちゃうんか~い!!)

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2022年6月30日 (木)

【第736回】「今、思うこと」O. M. (国語)

マスクをはずした君の顔が見たい

みんながみんな  今日もマスク  はずしたくてもはずせない  現実
それは感染症対策?  それは他人の目?  それは自分自身の心のバリアー?
そんな暮らしがもう2年半も続いている

マスクをはずした君の反応が知りたい

教室では  今日も深くかぶった前髪とマスクの間から  じっとみつめるまなざし

君は笑ってるの?  君は怒ってるの?  君は嘆いているの?  君は・・・?
君の反応が分からない
今のそんなにおもしろくなかった?  今のそんなにわからなかった?   声に出して教えてほしい

無反応の応答   声に出さない感動   授業中の憂鬱

日本の小学校6年生の女の子  約半数は  自分の素顔を人に見せることは今さらできないらしい
アメリカの研究  幼少期の子供は人の口角の動きで感情を読む練習をするので
今のままでは知能の低下があるとかないとか

ネット上を駆け巡る  情報  見失う  方向  もっと早く気づくべきだった  この悪影響

3密の回避  消毒液  変異株  ワクチン  ファイザー  モデルナ  副反応  そしてコロナ禍
独り歩きする薄気味悪い言葉達

新しい生活様式ってなんだ  僕らの生活は昔から変わらない
食べて   飲んで   笑いあって   話し合って   誰かを大切に思って    そして眠る
どの時代も   僕らの生活は僕らのもの   どこかの誰かに決して奪われたりしない

マスクをはずした君の本当の声が聞きたい

今は「まだ」なのかもしれないけれど  こんな毎日を当たり前に思ってしまうのが怖い
黙食  黙浴  無反応   次は何を無くせばいい?
僕らは全力で毎日を生きる  おかしなことにおかしいと思えることが  正気を保てるささやかな抵抗
マスクだらけの現実をおかしいと言える  だから今はまだ我慢できる
サムデイ  いつの日かきっと

マスクをはずして笑い合いたい
マスクをはずして叫び合いたい
マスクをはずして歌い合いたい

マスクをはずして  もっと大きな声で  

君の未来のために

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夜明け前  誰もいない  初夏の海岸  マスクをした少年

君は誰のために
頑張っているのか・・・

2021年1月14日 (木)

【第663回】 「ここはいっちょ景気よく、推薦入試の志望理由書や面接なんて「屁でもないわ」と強がっても大丈夫。とあえて言っておこう。」O. M. (国語)

 今年も大学や短大・専門学校の推薦入試の時期が終わりました。遊学館高校に来て7年目ですが、いつものように本年度も数多くの3年生の志望理由書や小論文・面接の練習にお付き合いさせてもらい、少しは皆さんの役に立てかなと思っています。特に今年はRITU大学のAO入試で、見事国際経営学科に合格したTさんとは、9月から約2ヶ月間2人3脚で志望理由書を考えて、その後英語科のオールスターの先生方に協力して頂き、英語の面接練習と、それに耐えられる英語思考での答えを考えていく作業は本当に楽しかったです。合格してくれてありがとうという気持ちと、こんな楽しいことにみんなで協力できる機会を与えてくれて、ありがとうという気持ちでいっぱいです。
 さて、今年の共通テスト(新センター試験)は、スタート元年からコロナの影響でつまずいてしまいましたが、出題される予定だった問題には「読解力」と「表現力」が極めて重視されています。ということは、世の中の大学生に求められている能力が、「読解力・表現力」なので、おそらくどの大学も今年の推薦入試やAO入試では、今までよりももっと「読解力・表現力」にこだわった問題が出題されるだろうし、志望理由書なんかも、もっと凝って考えて書かないといけないということなんでしょうね、ヤレヤレですね。

 でもね、志望理由書や小論文なんてたいしたことないんだなぁ~、実は・・・。
何て言うのか、方法というか「型」みたいなのがあって、それに当てはめて自分の本音(本気の想い)を書けば、必ず大学や専門学校の先生の心に「バキューン」と届く文章になるんですよ。

 さて、その方法はと言うと、まず考え方の基本を、スマホのアプリのように自分の頭の中にダウンロードしないといけない、そしてそのためには世の中のことに強い関心を持って、自分の考えを持たないとダウンロードはできません。来年の3年生諸君、今日からでも、たくさんの情報を仕入れて、自分の頭を大人使用に切り換えて、今年の入試に備えましょう。
 訪ねてきてくれたら、一緒にその方法を勉強していきましょう。授業持って無くても大丈夫なので、一度相談に来てくださいね。

 最後に宇宙戦艦ヤマトの終わりのナレーションみたいですが(知らないかな~)。
 「2021年推薦入試まで、あと300日・・・」

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2019年8月 8日 (木)

【第591回】 「響~ひびき~」O. M. (国語)

 知人の娘さんが好きで紹介してもらったのですが、まさか自分がこんなにドはまりするとは思ってもみませんでした。『響 (ひびき)』ご存じでしょうか。漫画『響 〜小説家になる方法〜』は柳本光晴さんの作品で『ビッグコミックスペリオール』にて、2014年から連載され、コミック発行部数は200万部を突破し、マンガ大賞2017大賞を受賞。2018年9月14日『響 -HIBIKI-』のタイトルで実写映画化されています。そして、映画化において監督自身が主人公、「鮎喰(あくい)響」はこの女優さんしか思いつかなかったという、平手友梨奈さん。もちろん「欅坂46」のセンターのあの人ですよね。
 物語の内容については、ネットやらで調べてもらえばすぐわかると思うので、あえてここでは書きませんが、本当に地味な漫画であり、地味な映画でした。もちろん映画も借りてきて観ました。しかも3回観ました。
 何がこんなに引っかかるんだろう・・ 実はそれが最も引っかかるところで、自分が興味を覚えたモノや関心を持ったモノは、昔から大抵その理由は自分なりに分析できてきたと思います。そして、その要領でなぜこの漫画と映画に心引かれるのかを解明しようとするんだけれども、答えが見つかりそうになると、その先に霧がかかったようにぼんやりと見えなくなる。でも、それは決して嫌な感覚ではなくて、ましてや大人だから15歳の女子高生が小説家になる話しなんかわかるわけないか、とか、今時の若い奴の感覚なんか年老いたオヤジにはわからんよなぁ、とかいう自分や相手を蔑んだ感想でもなく、ただ単純にこのお話がわかりたいという素直な欲求だけが働いているのが自分でも不思議に思えて楽しくなってきます。
 夏休みはいつもとは違って、特別な時間軸が回っていると思います。そんな時こそ、ちょっとスマホを置いて、映画を観て、漫画を読んで、小説を読んで、何かにこだわりを持って季節の移ろいを感じるのもいいかなと思います。きっとそのうち台風が来て秋風が吹く頃、夏に思い悩んだことの答えがすっと心をよぎるのを楽しみにして・・

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2018年3月 1日 (木)

【第518回】 冬季オリンピックを観て思ったことO. M. (国語)

 「隣の芝生は青く見える」という言葉がありますよね。自分の周りのものがよく見えてしまい、比べては悩み、そしてねたんでしまう気持ちのことを言います。そんな風に、とかく私たちは何かと言えば、すぐに誰かと比較して、そして誰かのことを悪く言ったり、蹴落として自分だけがいい目をしたいと考えてしまいます。人間ってつくづく嫌な生き物ですよね。
 今回、冬季平昌(ピョンチャン)オリンピックを観ていて、ひとつ気づいたことがあります。それは代表の選手達がインタビューで「自分のために頑張った」・「自分に勝った」・「みんなのおかげで乗り越えることができた」と心から自分の頑張りを表現していることです。今までのように「国の代表として勝たなければならない」・「皆さんの期待に添うように何としてでもメダルを取りたい」といった必死感いっぱいの気負いのセリフがあまり聞こえてきませんでした。
 一方でマスコミは「宿敵〇▲国に勝て」とか「〇▲国との因縁の対決」とか「無念!!〇▲国に惜敗」とか言って、どこかの国と争い、どこかの国に勝ってメダルを取ることが全てで、相手を蹴落とし、ねじ伏せ勝つことが美徳とでも言わんばかりに、選手や私たちをあおり立てます。
 しかし本当のアスリートは、そんなちっぽけな勝ち負け感情よりも、自分に対してどれだけ満足できたかが問題で、「本当の敵は自分の中にあり。」と言いたいのではないでしょうか。フィギュアスケート金メダリスト羽生結弦くんの言った「自分に勝つことができた。右脚に感謝。」というセリフが何よりもそのことを物語っているのだと思います。
 これだけ情報が世界中を駆け巡り、選手も海外で練習して、ワールドカップを転戦していると、国や人種なんかは越えてしまって、個人・人間そのものの競い合いになってくるのでしょう。その中で互いを尊敬してリスペクトし合って高め合っているのです。羽生君が「みんな同じスケートリンクで滑っている仲間。」と語ったのは本当に印象的でした。
 確かに「隣の芝生は青く見える」けれど「うちの芝生も青いですよ」と言えたら、そして青くするために誰と比べるわけでもなく、自分が満足できるように芝生の手入れをして努力することができたらいいなあと思えた、オリンピック観戦でした。

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2016年9月29日 (木)

【第445回】 歳をとるということO. M. (国語)

 別に威張って言うことではないと思いますが、最近「納豆」が食べられるようになりました。大阪生まれ大阪育ちなので(昔から大阪の人は納豆を食べない傾向にあります。らしい・・)、周りにはほとんど納豆を食べる人がいなかったせいもあって、とにかく納豆は毛嫌いしていました。一度高校生の時にチャレンジして思わず●✕てしまったので、それからというもの「あんな腐ってるものは食べもんやない!!」と公言して何十年かが経ちました。それが去年、突然食べてみようと思い立ち、なんとあっさり食べることができたのです。しかも、美味しいとまで思ってしまったのです。これは、僕にとってまさに「青天の霹靂(へきれき)」【意味】青く晴れ渡った空に突然激しい雷鳴が起こることから、予期しない突発的な事件が起こることをいう。 そして、まるで神の啓示のごとく思える体験でした。
 そうなんです!!歳をとると、初体験なことが実は増えるのです。たとえば、今まで着たこともなかった赤やオレンジの服を着ることができたり、絶対に知り合えないと思っていた種類の人と友達になれたり(例えばミュージシャンやDJや陶芸家と言われる人達)。あまり聞いたことのなかったイタリアやアルゼンチンのジャズのCDを山のように聞いてみたり。ノンストップで10キロ走れるようになったり。それから、猫を飼うということにどっぷりとはまってみたり。
 高齢化社会が問題になり、歳をとることがまるで「悪事」のように世間では言われていますが、歳をとることは悪いことばっかりじゃないんですね、実は。もちろん身体のあちこちが痛くなってきたり、ちょっと夜更かしすると翌日にとんでもなく響いたりしますけど・・・
 というわけで、若い若い、超若い高校生の皆さん。オヤジやおばさんをなめてはいけませんよ。オヤジやおばさん達はみんな歳をとってからできるようになった初体験に心を躍らせ、陰でこっそり牙を爪を磨いて「来たるべき超高齢化社会」に備えているんですよ。
やばいよ~気をつけてね・・・

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2015年5月21日 (木)

【第379回】 考えることO. M. (国語)

 その昔、フランスの思想家で哲学者のパスカルは自分の著作『パンセ』の中で、「人間は考える葦(あし)である。」と言いました。葦とは川辺に生えている雑草のことで、強い風が吹くとすぐに根こそぎ倒れてしまいます。パスカルはこの言葉で、「人間なんて所詮、川辺に生えている弱い雑草のようなものだ。」「でも、人間は考えることが出来る。川辺の雑草と違うところはそこだ。」と言いたかったのでしょうか。それならば、考えない人間は川辺の雑草と同じだということですよね・・・。
 私たち庶民(一般ピーポー)は、往々にして「考える」という作業を放棄してしまうことがよくあります。「面倒くさい」・「考えても答えが出ない」・「わからんし!!」こんな理由をつけて、考えないという行為を正当化して、真剣に考えて、悩んでいる人に向かって、「あんまり考えすぎると体に毒だよ・・」などと言い、あたかも考えないことを健康的で、楽天的に生きることが素晴らしいみたいに語ろうとする風潮はないでしょうか。そして、そんな気の利いた逃げ言葉に私たちは踊らされてはいないでしょうか。
 遊学館高校の生徒は、とても素直で純粋で、勉強したいという気持ちを持った高校生が大勢います。しかしその反面、(これはもちろん全ての高校生に通じることですが)「考える」ことをあきらめて、「わかったふり」・「知っているふり」・「考えるふり」をして、それを誰にも悟られないように隠しながら、授業時間が過ぎていくのをじっと待っている人たちも中にはいます。おそらくそんな人たちは、授業時間が退屈で、ひまで、だから眠たくてしょうがないのではないでしょうか。
 先日1年生の古典の授業で、あえてグループになって、漢文の訓読の練習を初めてやってもらいました。わからないところは仲の良い友達と相談できるし、みんなで考えて悩んで答えをひねり出すことができます。おかげでこちらが答えを言う前に、自分達で解答を見つけ出すことのできた、とてもいい授業になったと思いました。270521_7
 高校生活の3年間なんて、あっという間です。社会に出れば、想像もできないくらいの大変なことが山のように押し寄せてきます。そんな時、お金も無い、社会的な力も無い若い人に出来ることは、有り余る体力と、有り余る時間を精一杯使って「考え・悩む」ことだと思います。「グズグズ考える」「クヨクヨ悩む」そうして自分なりの答えを見つけ出していく・・・。
 そんな時間の重なりが、複雑怪奇、ぐっちゃぐちゃに入り組んだこれからの世の中を渡っていくための最終兵器になるんじゃないかな~と、今日もクドクドと考えています。