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2017年4月27日 (木)

【第475回】 努 力 の 壺Ta. Y. (英語)

 みなさんは「努力の壺」の話を聞いたことがありますか?
 私自身いつどこで、この話を知ったのかは覚えていません。 自分が生徒だったときに授業中に聞いたか、息子の道徳の教科書で読んだかでしょう。その時も「いい話だな」と感じましたが、最近英語の文章で同じような内容を読み、国が違っても努力する苦労やそれに対する考えは同じだとしみじみ思い、ここで紹介したくなりました。

 「私達は、何かを始めようとするとき神様からつぼをもらいます。そのつぼは・・」
この話はこの文章から始まりますが、例えば「勉強」に関する「努力の壺」が目の前にあるとします。子どもがすっぽり入ってしまうくらいの大きな壺です。
その壺には「テストで80点以上取りたい」という札が付いています。勉強するたび壺にはコップ1杯の水が入れられます。つまり「コップの水」=「努力」なのです。最初のうちは水を入れても入れても、水が増えている気配すら感じられません。どれくらい水がたまったかを確認したくても、壺の口が小さいので見ることが出来ません。
 人間には弱い心があります。
途中で、「どんなに努力しても全く進歩しない!」 「こんな事自分にむいてないのでは?」「無駄だしもうやめよう」と自分自身の努力に疑問を持つようになります。そして終には壺に水を入れるのをやめてしまうのです。
 人間には強い心もあります。つまり弱い心を克服できる人がいます。
「自分にむいていないのでは?」という悪魔のささやきに負けず、初心を貫ける人です。
毎日コップで水を入れていると、あるとき、水の音が変わってきたことに気付きます。水を入れたときに音がするのです。その音でちゃんと水がたまってきていることを知るのです。
 こうなってくると、コップで水を入れるのが楽しくて仕方ありません。「確実にたまってきている」と実感できたことで、今まで1杯入れるのがやっとだったのに2杯3杯の頑張りを惜しみなくできるようになります。
 ここまでくると、努力を頑張りとは感じず、生活の一部として取り組むことができるようになります。そして、いつかは壺から水があふれ出す時が来ます。このとき初めて努力の大切さを知ることができるのです。
 今は4月。新学年スタートです。努力してみませんか?

2015年12月 3日 (木)

【第403回】 生徒と先生Ta. Y. (英語)

  志望校合格を目指し、昼休みや放課後3年生と時間を過ごしている。始めたばかりの頃と比べると、取り組み方や学力にも良い変化が見られ手応えを感じる一方、生徒のマイペースっぷりにがっくりすることもたびたびある。毎回きちんと出席する者、言い訳付きで一部分のみやってくる者、プリント自体なくす者・・・。「本番まで後○○日!!」とこちらはやらせたいこと満載で焦っているのに、本人たちが呑気に構えているのを見ると、”自己責任なんだから放っておけばいいんじゃないか。わざわざ時間を割いているのに私だけ頑張っているんじゃばかばかしい。今日はもう止めようか。”という思いがぐるぐる回る。
       そういう時に思い出す1人の生徒がいる。
  1年の時に授業を受け持ったその生徒は特に目立ったわけでもなかったが、席替えをしても毎回なぜか最前列の同じ席にいるので(担任に要望して認められていたからだと後で知る)自然と話す機会が増えた。2年になり授業で直接顔を合わせることがなくなっても、定期テスト前、放課後よく質問しに来た。ついには「△△大学に行きたいから受験勉強をみてほしい」と言って来た。正直その時は“難しいな、頑張っても届くだろうか”と思ったが、放課後私のところに来る毎日が始まった。出した問題を全てこなし、暗記すべき単語や構文も同時進行で覚えてくる。模試の結果の悪さに泣くこともあったが、蓄積されていった学力はその子の武器となり、そして自信につながっていった。“この努力を何とか実らせてあげたい。結果を出せるようにしなくては。”と私にもプレッシャーの日々だった。
   そして2月、志望校に見事合格。
  この夏休みの帰省時に連絡があり、他数人の生徒と一緒に会う機会があった。「向いてないかもしれないけど、先生になりたいから教職を取っているのだ」と聞いて嬉しくなった。「中学の時は学校が嫌いで休んでばかりだった。1年の時たまたま英語のテストが良くて先生に褒められて、もっと褒められたいからますます頑張って、ってしているうちに英語が好きになり、得意教科になり、今の大学に入れた。夢もできた。先生に会えたから遊学に来てよかった。」みたいな事を言われてじんときた。
私自身覚えてもいないそんなことがきっかけになるんだ、と驚きもした。
あの時間は私にとってもかけがえのない時間であり、大切な思い出となった。
   人を「教え育てる」事はこの生徒のように決して成功ばかりではない。私も含め先生たちは失敗したり、立ち止まったりしながら日々模索している。
    “さあ、やっぱり今日の放課後も頑張ろう!”

2014年7月10日 (木)

【第335回】 父を想うTa. Y. (英語)

 いつもならこの時期は、夏休みの一泊旅行のためにチラシやネットで情報を集めているのだが、今年はその必要がなくなった。
 父は8年前に大手術をしてからあまり人と会いたがらなくなった。もともと外出も好きではない父を少しでも外に連れ出そう、段々慣れて旅行もいいもんだと感じて欲しい、毎年この旅行を楽しみにしてくれたら嬉しい、そう思って三世代プチ旅行をしてきた。
「即拒否される!!」という事もありえるので、旅行案を切り出すタイミングや誘い方を母と相談し合ったものだった。
 でも父は今年桜を見ることなくあっという間に逝ってしまった。
新年に撮った写真のあちこちに父が写っているのを見ると「どうしてこんな急に…」と涙が溢れる。父にとっても急なことだったのか、そうではなかったのか、覚悟はしていたのか、そんな時間すらなかったのか、考え胸が詰まる。
 世代交代、順番だから、と納得するようにして普段は自分の気持ちと折り合いをつけているが、父の部屋に入るともうダメだ。後から後から悲しみがこみあげる。
この部屋から階下の音は良く聞こえる。自分が参加していない時の家族の笑い声を父はどんな思いで横になって聞いていたのか。降りてこられないのならこちらがもっと行くべきだった。おえつをこらえきれない。

 じいちゃんなのにじいちゃんぽくなくて、やんちゃで理不尽で自分勝手ですぐ怒鳴る。
いつか、ほっこり穏かになった父とのんびり話しながらギョーザを包んだり、山菜の処理をしたり…と期待していた私。そんな時間もなく若いまま行ってしまった私の自慢の父。
 かっこいいよほんとに。
まだ涙している私を父は 照れくさそうにニヤニヤ?
            困ったもんだと心配顔?
            しっかりせんかと怒ってる?

 私が教える仕事をしていることを父は誇りに思っていたようで、実際、人に嬉しそうに話すこともあったと聞いた。その思いに答えられるように精一杯仕事に励んでいく。
  見ていてね。お父さん。

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2013年3月22日 (金)

【第272回】 これってFlexible? (Flexible:順応性のある)Ta. Y. (英語)

 学校から帰り『○○がきもい』と言った小三の息子に『きもいじゃなくて気持ち悪い!!』と注意したら、その後すぐ、今度は『ちげーし』と言う言葉を使っていた。
『ちげーしではなくて違うし!!』と注意して、授業中の余談でその話をした。
 すると生徒は『違うし』ではなくて、その場合は『違うよ』だと言う。『???』となる私に、『ちげー』の場合はプラスは『し』、
 『違う』の場合はプラスは『よ』なのだと言う。
 その後いろいろと説明されても、まだ私にはよくわからない。
 途中から、わかるつもりも実はなくなってしまった。

 最近、特に若者を中心に言葉が乱れているとよく耳にするが、ただ言葉は生き物だから、主観的には汚く、間違った、下品な言葉でも、広く使われるようになると個人の力では止めることなんてできない。
  『まじ?ちょ~まじやばいよ~』
  『これやばくなくね~?』
  『うわ、がちはまる~!』

 テレビで何かを食べている若い男女の会話だ。聞かされる私は、不快さと怒りさえ感じる。
 日本全国で同じように、叱りつけたい!と感じる人はいるだろうし、実際にテレビ局にクレームの電話をしている人もいるかもしれない、と信じて心を静める。
 たとえ叱りつけても、本人達がある程度の年にならなければこの下品で軽薄な言葉使いは直らないだろう。
 彼らだっていつかは使わなくなるし、そういう言葉を使う自分の子に注意をしているだろう。きっとそうだ!!と、しぶしぶ自分を納得させるのであるが…

2011年11月24日 (木)

【第209回】 ピグマリオン効果についてTa. Y. (英語)

 簡単に言えば、「お前はいい子だ」と言い続ければいい子になり、「お前は悪い子だ」と言い続ければ悪い子になる、という説のことです。

 ハーバード大学の有名な博士とその弟子たちが、ある学校で数ヶ月にわたって子供たちを診察しました。そして、1枚のリストを学校に渡しました。そのリストには、診察の結果判明した【将来学力を大きく伸ばすに違いない子供たち】の名前がありました。

 しかしその中にはどう考えても学力的に難しい子もたくさん入っていたので、学校の先生たちは首をかしげながらも、一流博士の言葉を信じて子どもたちに接していきました。そして1年後、学力テストが行われると、リストに載っていた子供たちは全員、例外なく学力が著しく向上していたのです。

 学校の先生たちは非常に驚き、博士の素晴らしい眼力と診察の奥深さに、畏敬の念を持ってそのことを報告したのです。ところがです。実は、そのリストはでたらめで、適当に名前を並べただけのものだったと知らされたのです。

 この子達の学力を向上させたもの、それは間違いなくその子を見続ける他人の目だったと言っていいでしょう。1年間教師たちはこの子達を「才能のある優秀な子」として見てきたわけです。ただそういう目で見ただけで学力が向上したのですから、驚きです。

 私は時々このことを思い出すたびに、これが逆に「学力が落ちる子」だったらどうなっていただろうと考え、そして実際私は生徒や息子にどちらの態度で接しているか、振り返って恐ろしくなるのです。

 「叱るよりほめよ」「信じないより信じるほうがいい」等の考え方はよく言われます。
しかし、わかっちゃいるけどついつい…というのが人間というもの。時々はピグマリオン効果を意識して、学校でも家でも指導していきたいものです。

2011年1月 5日 (水)

【第165回】負けることについてTa. Y. (英語)

 小学生の息子がある日持ち帰ったお便りにある言葉がありました。
それは「きちんと負けたことがありますか?」という言葉でした。

 息子は最近カードゲームに夢中です。
コンピューターゲームも頻繁にやり、勝ち負けに一喜一憂しています。
その他にも、持久走、縄跳び、オセロ、勝ち負けがでるような事が様々行われる中で、泣いたり、もめたり、怒ったり、落ち込んだりする息子を見ながら、私の心にもやもやとしたものが少しずつ溜まっていたからだと思います。

 私自身の生活でも、前日に大きな大会でいいところまでいって負けた生徒と接する事があります。彼らは意外なほどあっけらかんと明るくいつもの調子で話しかけてきます。気にしていないはずはないのに…。
負けを受け入れて、新しい目標に向けてそれを乗り越えようとしているのでしょう。そんな体験を何度か繰り返しそういう力をつけていく彼らには感心させられます。

 息子のお便りに先生が「きちんと負けたことがありますか」と書かれたのは、負けた子の事実の受け止め方に問題があると、日々感じ取っているからだと思います。負けることは悔しい、できるなら一生負けることから回避していたいという思いは誰にでもあると思います。

 生きている現実は他との比較・相対に支配される事が多くなります。
負けるという事実からは誰も逃げられません。だから、負けるという事実をどのように受け止めていくかは、生きていく上でとても大きな課題です。
負け方の正しい態度を育てておかないと、その敗北感を嫉妬や開き直りの感情に転化してしまいます。挫折を乗り越える力を育てることもできません。さらによくないことは、「負けるくらいならやらない」という逃避すらも生まれます。

 比較・相対はこのところすっかり悪者扱いされていますが、そうとは言い切れないと思います。比較する人やものがあるということは、それだけ自己を対象化でき、自分自身という存在を見つめる機会をつくり、その結果、自己のアイデンティティが確立されていきます。

 大人にとっても負け方は難しい。
そういう私も負けず嫌いだという点では、ちょっと負けない自信はあります。(笑)