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2022年8月25日 (木)

【第744回】「U-18全日本フットサル選手権大会を終えて」K. R. (地歴・公民)

 8月4日〜7日までの4日間、三重県にて行われた「U-18全日本フットサル選手権大会」に参加してきました。

 結果、決勝戦まで勝ち進むことができましたが、決勝戦当日、コロナ陽性者が出てしまい、決勝戦を行うことが出来ませんでした。
 しかし、両校優勝という結果となり、『日本一』になることができました。

 『サッカーとフットサルの融合』をコンセプトに、フットサルにも力を入れて取り組み始めた結果が、少しずつ形となってきているなと感じます。

 ただ決勝戦を行えなかったことで、対戦相手のペスカドーレ町田、大会運営の方々には大変ご迷惑をおかけしてしました。

 私自身も、決勝戦特有の雰囲気の中でプレーをすること、勝って泣くのか、負けて泣くのか、そういった勝負の場で、選手が何を感じて、どう成長するのか、楽しみだったので非常に残念な思いです。

 しかしこの大会を通して、貴重な経験を出来たことに間違いはありません。
 この経験を活かし、9月から始まる「北信越プリンスリーグ」残留へ、「高校サッカー選手権大会石川県予選」初優勝を目指し、これからも選手と共に戦っていきたいと思います。
 応援宜しくお願い致します。

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2022年8月18日 (木)

【第743回】「それって何の役に立つん?」K. M. (英語)

 私は数学が苦手だ。思い返せば小学1年生の通知表には「計算が苦手」というようなことを書かれているのを見た両親が絶句していた。当時母は小学校の教員で父は特別支援学校の教員。父は小学校での勤務経験もあったのだがそんな2人も小1の段階でそんなコメントを貰った生徒を見たことがないと…。
 そんなだから中学生になっても当然数学なんて理解できるはずもない。その時には中学校で理科を教えるようになっていた父は時々私の勉強を見てくれていた。が、私があまりにできなさすぎて父は絶望と失望、そして怒りを爆発させてある日「もうお前には教えへん!!」と言って二度と私に勉強を教えようとはしなくなった。勤務校では温厚な教員として知られていた父だったが、わが子の話となると別だったようだ、父がブチ切れたことに私は驚いた。
 けれども私は思っていた。必死になって数学なんてやる必要があるのだろうか。父は熱くなりすぎじゃないだろうか。だから数学ができなくてもさほど気に病むこともなく、高校受験は内申書と英語と作文、面接の4つだけで済む高校を選んだ。だって私の人生に数学は必要ないから。
 高校に行っても同じ調子だった。とにかく国語と英語が得意だったので卒業後の進路は文系の学部しか考えていなかった。定期試験で数学の赤点を取っても進級にかかわるほどのこともなかったのであまり気にしていなかった。もともと大学は一般入試で文系の学部を受験するつもりだったので内申書を気にする必要もなかったのだ。得意な国語と英語の点数を上げるために時間を使う方が有益に思えた。大手予備校の模擬試験で200点満点中5点程度しか取れなくても平気だった。だって私には国語と英語があるもん。数学なんていつ使うん?
 卒業後は関西の私立大学の文学部に進学。大学の文学部の授業に数学に関するものは一切なく、いよいよ私の数学不要論は確固たるものになっていった。なーんや。やっぱり数学なんていらんやん。簡単な計算さえできたら生きていけるし。
 確かに大学での4年間はそうだった。が、就職活動をしようとして驚いた。一般教養に数学の問題が出る??数学って一般的な教養の一つやったん??私は一般的な教養がないまま大人になってしまったってこと!?
 そうなのだ。数学は大人として働くために必要な教養の一つだったのだ。私は人生経験も働いた経験もないくせに、小さい頃から「数学なんて人生の何の役にも立たない」と勝手に決めつけて苦手なものから逃げていただけなのだ。そしていよいよ大人として社会に出ようという時に思い知らされたのだ。数学は必要なのだと。
 先日『大河への道』という映画を観た。江戸時代に伊能忠敬が日本全国を歩いて測量し日本地図を作ったという話は私も知っているが、それは間違いだったということを中井貴一さん演じる1人の千葉県の市役所職員が気づいてしまうことから始まるお話だ。
 その市役所職員が松山ケンイチさん演じる部下と海岸線を歩いて測量するシーンがある。そこで彼は測量には三角関数が必要だとその部下に言うのだが、部下は三角関数が理解できずに話が通じない。その部下も私と同様数学から逃げて大人になったくちだったのだろう。
 去年少し話題になったSNSの中にハーバード大学の生物学者さんが学生の頃に電車の中で数学の問題集を開いていたら見知らぬおじさん(どうやら職業は大工さん)から「三角比はやっとけ。」と言われたというエピソードがあった。その生物学者さんは当時数学が苦手だったそうだが、今となっては三角関数を毎日使っているそう。それに対するコメントなどを読んでみても、やはり大人になって自分が就いた職業で思わぬ知識が必要となり慌てたり、あるいはその知識があってよかったと思ったりすることが分かる。
 苦手なものからは逃げたい。その気持ちは避けられない。けれどもその苦手なものが必要かそうでないか。それを子どものうちに決めつけてしまうのは時期尚早だ。人生始まったばかりの若造にわかることなんてほんの一握りのことなのだ。タイムマシンがあればあの頃の私にそう言ってやりたい。
 けれどもそんなことはできない。せめて現役の子どもである皆さんと私の2人の子どもにこの話を送りたい。

2022年8月11日 (木)

【第742回】「負けて知る。」N. A. (保健体育)

 私は8年前にお隣の県立工業を卒業した。

バレー部に所属し高校3年間で春高バレーを3回、インターハイを3回、国体を2回経験してきた。3年生の頃、目標を全国ベスト4と掲げ練習に取り組んでいた。本気で練習をしない仲間と何度も喧嘩をしたり、練習がきつくて吐いたこともあった。夏休みのオフは8月31日の1度だけ。冬休みのオフは1月1日の1度だけ。楽しい事だけではなく、苦しい事も多かったが、それほどにバレーに熱中し全力で取り組んできた。

しかし、最高順位は国体の5位と目標のベスト4にはわずかに届かなかった。頑張ってきた自分たちよりも更に頑張っている相手がいて、常に全国制覇を目指して練習している相手がベスト4には残っていた。

私は今になり正直、負けてよかったと思う。そこで考え方が大きく変わった。
しんどい時には、「もっとしんどい人は沢山いるんだ。」
頑張っている時には、「もっと頑張っている人は沢山いるんだ。」
そんな風に周りを見るようになれたからだ。
これは他人と比較するのとは別だ。
誰かを、うらやましく思い、自分を卑下するのとは違う。

自分が思うよりも全力は先にある。
負けたことで、それを知ることができた。
勝っていたら自分の全力は、高校生の頃で終わっていただろう。

人生はまだまだ長い全力で人生を生きていきたい。

2022年8月 4日 (木)

【第741回】「還暦を迎えて」K. Y. (国語)

 干支で言うと寅年の今年、私も晴れて還暦を迎えることになります。中原中也の詩「頑是ない歌」の一節に「思えば遠くに来たもんだ」とありますが、高校生の十代半ばで、このフレーズを耳にした折、なにか『はるかなる人生の厚み』というものを感じ取っていました。ここで第一連から第四連まで抜粋してみると、

 (頑是ない歌)
 思えば遠くに来たもんだ
 十二の冬のあの夕べ
 港の空に鳴り響いた
 汽笛の湯気は今いづこ

 雲の間に月はいて
 それな汽笛を耳にすると
 竦然として身をすくめ
 月はその時空にいた

 それから何年経ったことか
 汽笛の湯気を茫然と
 眼で追いかなしくなっていた
 あの頃の俺はいまいづこ

 今では女房子供持ち
 思えば遠くに来たもんだ
 此の先まだまだ何時までか
 生きてゆくのであろうけど

 となり、このあと第9連まで続きます。
 私は地方の港町で生まれ育ちました。十二歳・寅年の冬はまさに、汽笛の音に竦然として雪降る街を彷徨し、母の愛に守られていた、そういう時代でした。おとなになれるなんで思いもしなかった。けれど、たまに響いてくる汽笛の音は、遠くの街、遠くの未来へつながっている、そういう期待もありました。
 二十四歳・寅年の冬、都会の片隅で彷徨していました。竦然と雑踏の中でもがいており、希望の道に進むには能力も乏しく、さりとて鍛錬することもなく、電車の音に身を任せていた、そんな時代でした。ただ、思いがけない旱天慈雨の出会いもありました。加藤晃現学園長との出会いです。このことが現在の私につながってきます。

 あれから36年、還暦、人生6度目の寅年がめぐってきました。彷徨しているのは相変わらずですが、それほど人の道を踏み外すことなく歩んで来られたのは、ひとえに金城学園のおかげだと思っております。
 おかげさまで、生徒に教えられ育てられ、それなりに成長をしながら、有意義な人生を送ることができたと実感しています。一期一会の人生、かかわってくれたクラスや部活動の卒業生並びに在校生には感謝感謝感謝です。

 思えば遠くに来たもんだ さあれど
 遊学館の隆盛が励みの 一つの生きる指針はできました。
 とくにたくさんの思い出を作ってくれた 硬式野球部 応援しています。頑張れー!!!