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2013年6月20日 (木)

【第284回】 月と電子N. A. (数学)

 中学生の頃、ある学習塾でのことである。
 科学の先生が周期律表を黒板一杯に書いて説明していた。原子番号の若い順に水素、ヘリウム、リチウム・・・と原子記号を書いて、それぞれの原子構造が示してあった。そして先生は、「水兵リーベぼくの船・・・・」と書いて、このようにして表を覚えなさいと言った。
 私がその語呂合わせの素晴らしさに感動していたとき、一人の友達が質問した。
 「先生、その原子は月と地球みたいやけど、そこにミクロの人間が住んでるちゅうことはないやろか。」
 確かに水素原子は原子核のまわりを電子が一個回っていて、まるで地球と月である。ならばそこに人間のような生命体が存在してもよいではないかと彼は言うのである。何とも夢のある話である。
 教室にどっと笑いが起こった。しかしその先生は、一瞬不愉快そうな表情を見せたあと、再び「水兵リーベ・・・・」と続けたのである。
 この原子核のまわりを電子が回るという図は、もともとラザフォードが天体を模して考案したモデルである。だからそれが地球と月や太陽系に見えても何ら不思議はない。つまりその友達は、モデルにすぎないものを実際にそのような形をしているととらえてしまったのである。
 先生にしてみれば、原子モデルのことはすでに説明済みなので、何を馬鹿なことをと思ったのだろう。しかしここで先を急ぐのをやめて、科学的認識とは何かについて詳しく話してくれたなら、さぞかしためなっただろうと思う。また、周期律表が、世間の嘲笑を浴びながらも貫き通したメンデレーエフの信念の結晶であることに一言でも触れてくれれば、どれだけこの友達は勇気づけられたことだろう。わたしたちは、科学が「水兵リーベ」以上に創意工夫と知的冒険に満ちたものであることを知ったに違いない。
 ちなみに、原子が実際に原子核のまわりを円運動することは科学的に言ってありえないことである。しかし、原子の性質を記述するためには、電子の公転ばかりか、自転(スピン)まで考えるのである。これは光に波長はあるが、光が実際に波打っているのではないことにも似ている。つまり原子物理学のような微細なものを研究する分野では、目に見えないものを研究対象にしているので、その性質を記述することしかできないのである。

250620
写真 『世界で一番美しい元素図鑑』
 セオドア・グレイ 著
 ニック・マン  写真
 若林文高  監修
 武井摩利  訳