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2009年12月23日 (水)

【第114回】自主性城丸 哲宏 (地歴・公民、福祉)

 私は、女子卓球部を16年間指導させてもらっています。
ついこの2ヶ月程前に知人を通して、体の使い方の理論である「○○○○○理論」(名称を出すのは良くないらしいので)という考え方に出会いました。この考え方を実践してみると見事に選手の動きが変わり、まさに「目から鱗」といったところです。

私自身、長年悩まされていたものも解消され、「どうして今までこんな簡単なことに気が付かなかったのだろう?」と反省もしました。そして、こんな良いものがあるのなら皆にも知らせてあげようと思い、同僚の運動部の顧問に紹介してみたところ皆の反応は一様に意外なものでした。

それは、「へぇーそうなんですか?」、「ふぅ~ん」、「なるほど」などです。私はもっともっと良い反応を期待していたので、「あれっ?」という感じになり、しつこく話をしていると、「どうしたんですか?」や「はまってますねー」などと言われる始末です。もちろん興味を持ってくれた方もいましたが、私にとってはとても意外でした。

 この出来事から気付いたことは、「人に言われたことでは身に付かない」ということです。簡単に言えば、「自主性」が必要と言えるでしょう。私もよくよく考えてみれば、人からアドバイスをされても素直に聞いていない時も多くありました。自分がその気にならないと身に付かないということがこの経験で再確認できました。

 これは指導をしていく上でも全く同じであって、生徒に押しつけるのではなく「その気にさせる」ということの大切さを身を持って感じることができました。

 先日、大会があり新しい理論を取り入れた成果が多少はあったかなという手ごたえがありましたので、今後が楽しみだと思っております。

2009年12月16日 (水)

【第113回】グライダーと飛行機中川 光雄 (保健体育)

先日、一年の世相を表す今年の漢字に「新」が選ばれた。
民主党の政権発足、型インフルエンザの流行、イチロー選手の
大リーグ9年連続200安打の記録などへの人々の関心と期待を反映した。

私自身も今年は外山滋比古氏の「思考の整理学」という本を読んで
しい考え方が身に付いた。

なぜこの本を読んだのかというと、表紙に「東大・京大で一番読まれた本」と書かれていた。
最近どの本にも興味をもたせるためカバーに付いている文章に、私はいとも簡単に興味をもち、東大生、京大生が理解できて、私にはできないのかという勝手な負けず嫌いな性格も重なり、一気にこの本を読破した。

グライダーと飛行機は遠くから見ると似ている。空を飛ぶのも同じである。ただグライダーは自力で飛ぶことができない。受動的に知識を得るのがグライダー能力である。
飛行機はエンジンがついているので自力で飛ぶことができる。自分で物事を発明、発見するのが飛行機能力である。

人間にはグライダー能力と飛行機能力がある。両方の能力を人間は持ち合わせている。という内容がある。

私は野球部の顧問をしていて、部員達に私生活では…学校生活では…部活動では…と教えている。素直な子達ばかりなので、グライダー能力はどんどん身につけている。しかし飛行機能力はどうか。テスト前や部活動中で自由な時間を与え、好きにしていいよと助言するとかたまってしまう。自力で行動することをためらう。受動的に知識を得る能力が高ければ高いほど自力で行動するのに時間がかかる。

これからの世の中、自分で物事を発明、発見する飛行機能力がより重要である。教えてばかりでは駄目だと気付いた。注意を与えて導いてあげることだけでなく、自分自身で判断し、あらゆる壁を乗り越えていけるようにアドバイスをしていくことがより大事だと気付いた。

部員達にはグライダーにエンジンを搭載した飛行機人間になってほしい。

2009年12月 2日 (水)

【第111回】日本の英語教育について渡辺 祐徳 (英語)

◆世界に誇れる日本の教育システム◆
 大それたテーマを掲げてみた。
詰め込み主義といわれた時代から「ゆとり教育」へ、そしてそこからの転換…。国の方針が変わるたびに学校の現場がその対応に追われてきた。かつては世界でトップレベルを誇った日本の子どもたちの学力は、各国からの注目を浴び、日本の教育制度を多くの国や海外の教育団体等が参考にしていた。

数多くの議論はあるが、文科省の指導要領の下、各学年において学習すべき内容とレベルが体系的に整備された日本のようなシステムは、欧米諸国においては、ドイツ、ノルウェー、カナダに見られるが、アメリカでは州によって対応が異なっている。教科書会社によってその内容は様々で、どの教科書を使用しているかでその学校のレベルが分かるため、教科書で学校を選ぶ人もいるほどだ。

◆迷える日本の教育◆
 皮肉なのは、世界に誇るべき教育制度と教育のレベルを持ちながら、一方で日本は常に外国の真似をしようとしてきたことだ。やはり外国に対してコンプレックスがあるのだろうか。「ゆとり教育の失敗」と「学力低下」は現場では予期できたことであるが、行きすぎた外国模倣の結果と言えないだろうか。もちろん学力が高かった時代の制度が絶対的だと言うつもりはないが、海外の方式を参考にしつつ、日本独自の改良を重ね、もっと世界の模範となるようなシステムを作り上げるべきではないだろうか。

◆「英語で授業」の必要性◆
 話を本題の英語教育に移そう。
新学習指導要領が文科省から示され、高校英語においては標準語彙が500増え1,800語になるなど、「脱ゆとり教育」が明確に打ち出された。特に目をひいたのは、「英語で授業を行うことを基本とする」という方針だ。つまり、学校の授業を「オール・イングリッシュ」にしようというものだ。

 実施に向けては、多くの問題点が指摘されている。
「授業そのものを英語で行うことによって、生徒の理解は大丈夫か?」
「生徒の負担はますます増えるのではないだろうか?」
「学校での受験指導が遅れ、ますます補習や塾通いが増えるのではないだろうか?」
 そして何よりも、日本語の使用を意図的に避けて、「オール・イングリッシュ」にする必要性はあるかという大きな疑問を拭えない。

◆なぜ英語が使えるようにならないのか◆
 日本の英語教育の欠点として、「中高と6年も英語を勉強しても、まったく英語でコミュニケーションができるようにはならない」と言われてきた。この原因は何であろうか?

 外国語の習得には、1年間で1,000時間から2,000時間が必要であると言われているが、英語を本気でマスターしようとした経験のある人ならば、長期間にわたって継続的に英語に触れなければ難しいことを身をもって体験している。まず学校の授業だけでは、一人あたりにこれだけの時間は確保できないことも当然理解できるはずである。

 それに加えて、もともと日本人は言葉によるコミュニケーションが苦手な国民である。
学校の授業も先生の説明を聞くのが基本で、若い年齢から積極的に発言や発表をさせる欧米のやり方とはまったく違っている。日本語でできないことを英語でやるのは無理なことだ。文科省は、まず英語の授業内容をあれこれ変更する前に、小学生段階からディベートやプレゼンテーションの能力を育てる教育を検討すべきだ。

◆海外の状況◆
 しかし、これは日本だけの問題ではない。
私は個人的に世界の多くの国の人たちと毎日インターネットでやりとりをしているが、英語がほとんど分からない人が多い。フランス、イタリア、スペインなど、ヨーロッパの人たちでも、日常的に英語に触れる環境にない人たちは、ほとんどの人が英語がお世辞にも上手と言えない。

 フィリピンやシンガポールなど、他民族国家であるために国の治安上、英語を公用語としている国の人たちには当然英語が上手な人が多い。しかし私の経験上、そういう国の人でも、英語は聞いて理解はするが、流暢に話したり書いたりできる人の割合がどれだけ高いかは疑問である。はっきり言って、下手な人と会う確率の方が圧倒的に高いのだ。

 私が感じる限りでは、どうやら英語が苦手な国民は、日本人だけではないようだ。言語体系がまったく違い、英語にまったく触れなくとも生活に支障のない日本において、学校の授業だけで高校卒業までに英語のコミュニケーション能力を身につけさせようとするのは、限界があると言わざるをえない。

◆増える生徒の負担◆
 「オール・イングリッシュ」に力を入れることで、生徒の負担がますます増えることが懸念される。センター試験はますます長文化し、80分間で4,000語を読まなければならない。独立したリスニング問題が50点分あり、筆記とリスニングを合わせて、英語だけが250点満点と他教科に比べ、分量が多くなっている。

 加えて、国公立大学の二次試験においては、英作文問題では単純な和文英訳問題が減り、コミュニケーションを重視した内容に変わってきているが、それ以外は今だに和訳と日本語で内容について説明させる問題がほとんどである。もっとも曲がりなりにも大学入試の問題である以上、安易に会話力ばかりを問う問題にする必要はない。

 現に世界中で実施されているTOEFLやTOEICのような試験では、もちろん日本語は一切書かれていないが、読解力や文法力、語彙力を高いレベルで試す内容となっている。また大学では、英語で書かれた海外の文献を日本語のレポートや論文にまとめる作業も、大切な研究の一部だ。だからこそ和訳や説明問題が多いのだ。高校の英語の授業を英語だけで行い、和訳の練習をしないと言うことになれば、当然入試対策は授業以外で行わなければならず、相当な負担増になるに違いない。大学が求めている英語の技能と、高校の授業内容が乖離するような状況はぜひとも避けたいものである。

◆見失われている英語の授業の役割◆
 それにしても、英語の授業に対して、なぜここまでに多くのことが学校で要求されるのだろうか。他教科の先生には申し訳ないが、たとえば音楽を例に取ると、小学校から高校まで音楽の授業を受けても楽譜を読めるようには決してならないし、学校以上のことがしたければ、自ら進んでピアノ教室などに通うのが普通だ。英語のコミュニケーションができるようになりたければ、英会話教室などに行くべきだと思う。

母国語である日本語について言えば、国語の授業も小学校から必修であるが、高校生になっても作文が書けない生徒や、中学校までの漢字の読み書きができない生徒がいるのが現状である。英語の授業に何でも求めすぎて、本当にするべきことが見失われていないだろうか。

 以前にオールイングリッシュで授業を実践されている高校の発表を聴いたことがあるが、文法的な説明は、夏休みに日本語で行うそうである。センター試験の成績も上がり、英検準1級取得者も出ているそうである。逆に国公立大学進学者は決して多くはなかった。長期の海外ホームステイ制度を多くの生徒が利用し、英語教育に相当の時間をかけて成果を上げる一方で、他教科の伸び悩みと、受験対策の遅れなどが原因かも知れない。行きすぎた日本語の排除も関係しているのではないかと考える。

 また授業がすべて英語で行われるということで、拒否反応を示す生徒もいるため、そういう生徒には必ず休み時間に面談をしているそうである。オール・イングリッシュも細心の注意と準備をして導入しなければ、結局は授業について行けない生徒をたくさん作ることになるかも知れない。

◆日本人として英語の授業で目指すべきこと◆
 生徒が外国語として英語を学ぶ意義は、外国人になることではないはずだ。
日本人として、日本と外国の文化や習慣の違いなどを比較して、日本語でも英語でも発表できると言うこと、日本語と英語を通して、外国と日本の橋渡しをすること。これは外国語として英語を学んだ者の特権である。英語を日本語に訳したり、日本語の文章の内容を英語で説明する練習も、この特権を行使するために必要なことだ。本校ではバランスの良い授業を心がけ、授業の役割と目的を見失わず、質の高い授業を提供していきたい。